虎と小鳥のフランス日記第50話 フランス大統領選挙(その2)を見て

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    虎と小鳥のフランス日記 第50話 フランス大統領選挙(その2)を見て

    今回の大統領選挙の各候補者のポスターを見ると、France Forte, France Libre など、というスローガンが見られた。一つの国が強い国、とみられるためには、いくつかの条件が要る。

    1.        食糧自給率が高いこと

    2.        エネルギー資源が充分にあること

    3.        国防力が確立していること

    4.        国民に自立心があること

    5.        国際的発言力があること

    6.        教育、経済、財政、が安定していること

    などがあげられよう。

    フランスは食糧自給率100%であり、未耕地を活用すれば、現在の人口が3倍になっても自給出来る国である。

    エネルギーについては石油は輸入に頼らざるを得ないが、電力の75%は原子力発電によって賄っている。天然ガスは輸入しているが、電力は輸出国である。Hollande の2012年選挙公約は原発依存度を2025年までに現在の75%から50%に減らすとしており、一方では第3世代の原子炉「欧州加圧水型炉 EPR(Réacteur pressurisé européen) の推進には賛成しており、環境派から反発されている。

    国防力については、核保有国であり、アリアンヌ・ロケットによる宇宙開発、ミラージュなどの航空機では超一流国と言える。

    国民の自立心については右派、左派を問わず高い。国歌にたいする愛着心は、最近やや低下の傾向があるものの、いざというときは団結する力がある。

    国際試合で、フランスチームに活を入れるときのレフレーンは、右派、左派共マルセイエーズの中の、« aux armes citoyens » の大合唱である。

    国連では常任理事国であり、右派、左派で分裂していない。IMH, WTO, 欧州中央銀行総裁などの、国際機関のトップはフランス人である。

    自由、平等、博愛、連帯の価値観は右派、左派とも共有しており、これに反する、例えば、リビアのダフィ政権の打倒には両派とも賛成している。

       問題は経済、財政で、ドイツに一歩遅れをとっている。フランスとドイツは長い間、第二次大戦まで戦いを繰り返してきたが、大戦終了後、アデナウワーとシュウマンの二人の「ライン人」が両国の間で二度と戦争がおきないようにしようという話から、1951年には戦争に不可欠な石炭と鉄鋼を共有しようとするパリ条約を調印している。現在、社会科の教科書は、両国とも言葉こそ違え、中味はまったく同じにしているし、(日韓とはまるで逆である)幾多の経緯を経て、欧州統一通貨ユーロ制度に踏み切っている。1991年12月、EU 首脳会議で、「フランスは我が祖国、欧州はわが未来」が口癖のミッテランの記者会見が行われたのは、午前2時、2000年EU 首脳会議でEU拡大に備えた制度改革の合意にて手間取り、議長国のフランスのシラク大統領が記者会見したのは徹夜会議後の午前6時であった。今回のユーロ危機を乗り切るため、サルコジが顔面蒼白になって各国首脳との調整を図り、とりあえず、乗り切ったのは2011年10月下旬、サルコジが会場を去ったのは午前4時であった。

          問題は自国の経済、財政、失業率の問題で、サルコジも、支持者からは「何時寝るのかわからないほど、活動したが」、結果として、失業率を下げる、つまり雇用の機会を増やすことはできなかった。

          70万人の雇用を創るのが目的で、2002年、社会党内閣で週35時間制が実施された。結果は労働省の発表で、1998年から2004年までに35万人の雇用があったとされているが、MEDEFMouvement des entreprises francaises フランスの経団連) は初年度で15000人としている。OECDも短期的には財政には重い負担増となり、経済的潜在能力に打撃を与える恐れがある、と結論づけている。ただし、35時間制の採用で出生率は増加し、いまでも続いているので、長期の調査が必要だと言われている。

    「社会格差是正」lutte contre la fracture sociale という左翼ばりのスローガンを1995年の大統領選挙の公約に掲げたのは何と、右派のシラクであった。

         Hollande 新大統領は緊縮財政に反対する立場で、この問題をどう解決し、ユーロ危機を脱出するのか、その行き先に、はやくも市場は黄色信号を出している。

          織田先生は今回の選挙には隠された争点として人種問題があると解説しておられた。サルコジ自身ハンガリヤ移民2世である。人種問題は各国で、その歴史、影響、世論はまったく異なり、沢山の本が書かれるほどの大問題であり、老生の手に負えるものでない。

          ここでは、フランスの人種問題の一つである、イスラムとユダヤと限ってその歴史の一端に触れてみたい。

    アラブ民族のなかで、マグレブ Maghreb (アラブ語で日の没するところ)諸国(現在のエジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど)に侵入し、さらに、ジブラルタル海峡を超えて、イベリア半島に入って来た民族を サラセン人、Sarrasin, または、Sarrazin という。イスラム教徒 Musulman である。彼らは、グラナダを根拠地として、イスラムースペインの混合文化の華を咲かせることになるが、711年からピレネ山脈を北に越えて、現在のフランスに侵入してくる。725年には Languedoc を占拠し、ローヌ峡谷を簒奪した。Aquitaine 公は、721年、Toulouse でサラセン軍の侵入をとめたが、サラセン軍は再度侵入を試み、Aquitaine 公だけではくい止めることができず、732年、Charles(690?−741) の援軍を乞う。Charles は事実上この当時のフランス国王であった。フランス連合軍はPoitiersで、サラセン軍の大将を殺害し、勝利した。一説によると、この勝利により、Charles は Charles Martel と呼ばれるようになったという。Martel とはMarteau (ハンマー、斧)である。余談であるが日本家電全盛期にフランスはこの侵入を阻止すべく、日本製品の税関を Potiers に設けたのはこの故事によっている。

          サラセン軍は全戦線で敗退したのではなく、735年には Avignon, Arles を占領している。Charles は737年には Avignon を奪回した。この勝利で、サラセン軍は Narbonne 以南と、Provence のいくつかの要塞地点を占拠するにとどまった。その後、759年、フランス軍はNarbonne も奪回し、この勝利でCharles Martel の王国は統一されたといわれている。

          Charles の孫の Charlemagne (ドイツ語でカール大帝)は、778年、スペインのカタルニアに遠征、甥のRoland はこの遠征で、最も危険な後衛部隊を率い、イスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のRoland は助けをもとめず、伯父から賜った剣で最後のひとりになるまで戦った。11世紀末に作られた Chanson de Roland はこの故事をテーマにした叙事詩である。

          時と場所が変わって、1099年のエルサレムである。第一次十字軍がイスラムに勝利し、Royaume de Jérusalem Royaume latin とも言う)

    を建国、、フランス人 Godefroy de Bouillon が初代君主となり、王国は1187年まで約100年間、続く。十字軍の遠征目的は聖地エルサレムをイスラムから奪回し、キリストの墓と遺品を守ることであった。十字軍は1270年の Saint Louis聖王ルイの出征まで8回おこなわれるが、キリスト教徒がエルサレムを支配したのは、1099年から1187年までと1229年から1244年までの間で、その他の期間は20世紀まで、イスラムが支配した。

          Saint Louis は、キリストが磔刑に処されるゴルゴダの丘まで、自ら担がされたとされる十字架の一部、頭に被せられた、茨の冠を高額で買取り、パリに Saint Chapelle を建立して、そこに奉納したが、フランス大革命のとき、礼拝堂は簒奪され、キリストの遺品reliques de la Passion は失われたという。サンルイ島にある美しい礼拝堂はいまでも観光客が絶えないがキリストの茨の冠をみることはできない。

          第1回十字軍の時から、聖地エルサレムに巡礼するキリスト教徒を保護し、病院を建てたのがマルタ騎士団であった。かれらはエルサレムを追われてから、一時ロードス島に根拠地を移した、1552年、オスマントルコに占領され、マルタ島に移ったので、この名がある。マルタ島は1798年、ナポレオンが侵攻、騎士団は領土を奪われ、現在領土がないまま、イタリアから治外法権を認められていまなお存続している。

    十字軍はイスラム教徒を殺したが、多くのユダヤ人も殺した。キリスト教徒の反ユダヤ感情 Anti-sémitisme の根は、実に深いことも知っておく必要がある。

    現在フランスのイスラム系移民は約500万人、人口の1割近くいる。イスラム女性は「ブルカ」「ニカーブ」を着用する習慣があるが、 Laïcité「政教分離」のフランスでは公の場での着用を禁止する法令を上院、下院で可決している。これは宗教弾圧ではないと、憲法評議会も承認しているようである。しかしキリスト教徒、イスラム教徒の対立は上記のように根深いものがある。両宗教ともユダヤ教のアブラハムから始まっているのに。 ユダヤ教が成立して600年後にキリストが生まれ、さらに600年後のモハメットが生まれている。

          さてもうひとつの人種問題であるユダヤである。1894年、ドレフュス事件が起きた。ユダヤ人の、フランス陸軍参謀本部大尉のAlfred Dreyfus がドイツに軍事機密を漏洩したスパイとされたことから始まる。証拠不十分なまま非公開の軍法会議でドレフュスは有罪とされ、階位を剥奪され、終身禁錮刑で、南米仏領ギアナ(アリアンヌ・ロケットの打ち上げ基地がある)の沖の L’île Diable に送られた。

    この事件は、その後フランス国内を dreyfusard と anti-drefusard とに二分する社会事件に発展、Zola がこの裁判を弾劾して、“J’accuse 我告発ス ”と書き、彼自身も有罪とされ、イギリスに亡命した。途中経過は省略して、ドレフュスと一家は終始無罪を訴え、ついに、1906年無罪判決を勝ち取る。この冤罪事件は、日本では、昭和初期、大仏次郎「ドレフュス事件」によって紹介されている。

          この事件の背景を考えておく必要がある。1870年の普仏戦争に敗れたフランス(ナポレオン3世帝政下)は鉄鉱石と石炭の豊富なアルザス=ロレーヌを失い、莫大な賠償金を課せられフランス経済は危機に直面する。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへ投資した。しかし、1882年に金融恐慌が発生、多くの投資銀行が破産、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。ユダヤ人の金貸しから借りていたフランス庶民は借金の証文を破り捨てた。

    事件後、軍部の自己保身とユダヤ人排撃が原因であることが判明し、フランス陸軍は決定的なまでに信用を失う。一方、この事件がきっかけで、ユダヤ人国家を目的とするシオニズムが生まれ、第二次大戦後、1948年のイスラエル建国につながってゆくことになる。ユダヤ人は2000年奪われていた領土を回復したのである。

    しかし、フランスでは、anti-sémitisme 反ユダヤ感情は今でも根強く残っており、時に国内のユダヤ人墓地が陵辱される事件が起きている。

    Juif という言葉は時に、「差別語」とされるので、フランスでは使わないほうがよい、と筆者はフランス人から忠告を受けたことがある。では何と言うのかと反問すると、「Hébreux,または、Israélite」との答えであった。ヘブライとはユーフラテス川を「超えてきた」人の意味。イスラエルとは、アブラハムから数えて4代目のヤコブが神の使いである天使と戦い負けなかったので、神から、神に負けざる者 invincible という意味の イシャラー(勝つ者)に エル(神)の複合名詞でイスラエルと名を名乗ることを認められ、この名が国の名となった、と旧約聖書に書かれている。

          まったく余談だが、日猶同祖論というのがある。日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説で、少数ながら、日本とイスラエルにこの論者がいる。日本に住んだユダヤ教ラビのトケイヤー氏もそのひとりである。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96 に27ページにわたり詳述されているので、ご興味のあるかたは参照されたい。上述のヤコブが4人の妻に産ませた12人の息子が猶太12氏族となったが、ソロモンの死後、10氏族はソマリアを首都とする北イスラエルを建国、ダビデ ー ソロモン直系の2氏族はエルサレムを首都とする南ユダ王国に分裂した。北イスラエルは紀元前722にアッシリアに滅ぼされ、10氏族の指導者層はアッシリアに連行されたが、その後の行方は不明である。日猶同祖論ではこの「失われた10氏族」は日本に渡来したという。日本でキリストの墓をまもる青森県、戸来(へらい = ヘブライに通ずる)の話もある。

    http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A2%93 

          それはそれとして、老生がかねがね疑問に思っていることがある。アメリカに居住するユダヤ人は500万強、イスラエル本国にほぼ同数、世界中のユダヤ人を合計しても1400万人と言われる。アメリカ全人口の2%程度しか占めないユダヤ人がアメリカの国富の約1/4を占めるという。ノーベル賞受賞者の1/3は、アインシュタインを初めてとしてユダヤ系である。 何故なのか? ひとつの答えは、領土、資源をもたない民族の力は頭脳と資質だけであるから、ユダヤの富豪たちはその富を優秀な人材を育てるのに惜しみなく使うというのであるが、ご存知のかたにご教示いただければ幸甚である。

         

    プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいると、上述したことが諸所に出てくる。グルマント家の先祖がCharles Martel に従軍した Brabant 公を先祖としていることを伺わせる、 Genevière de Brabant 伝説や、マルタ騎士団の団長も同家の先祖であると、匂わせることが書かれているし、著者の母親がユダヤ人であったこともあって、ユダヤに関する色々な話が登場する。 南ユダ出身のアタリーをテーマにしたラシーヌの戯曲「アタリー」は何回も引用されているし、グルマント家のサロンではドレフュス事件の賛否が論じられている。小説としての醍醐味もさることながら、旧約聖書から、20世紀初頭までの、フランスの歴史の推移を知ることができる大河小説でもある。
    Charles Martel a la Bataille de Poitiers en cotbre 732
    par Charles de Steube (1788-1856), Musee d'histoire de France
    de Versailles


    虎と小鳥のフランス日記第49話フランスの大統領選挙(その1)を見て

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      虎と小鳥のフランス日記第49話フランスの大統領選挙 (その1)を見て

      現在のフランスは第5共和政である。Cinquième République. 一度政界を引退したドゴール将軍がアルジェリア戦争を背景に第4共和政を倒し、第5共和政を開始したのが 1958年である。第4共和政に比べて、立法権(議会)の権限が著しく低下し、一方、大統領の執行権が強化されたのが第5共和政である。大統領に付与された強権は以下の通りである。

       ― 国民議会を解散する権限をもつ。議会で可決された法案に対する拒否権はないが憲法裁判所に申し立てる権利をもつ

       ― 国民議会は、国家反逆罪を除き、大統領への弾劾裁判権をもたない

       ― 議会を飛び越して、法律案、条約批准案、憲法改正案を直接国民投票にかける権限を持つ

       ― 非常事態権を行使する権限をもつ

      以来、今回の大統領選挙は第5共和政になって、10回目になる。 最初の選挙が間接選挙であったので、無記名直接選挙で大統領が選ばれるのは9回目である。

      この間に憲法その他の法律が改正されて、2000年から、大統領の任期は5年quinquennat)である。最大で連続2期。それ以前は任期は7年で(septennat)、任期の数について制限はなかった。2期ですら、2期x7年­ 14年はあまりにも長いというわけである。また、2001年の法改正で、被選挙人の年齢制限は23歳から18歳に引き下げられている。ちなみに、フランス史上、最初の大統領はルイ・ナポレオンであり、史上最年少の40歳であった。

            無記名の直接投票(suffrage universel uninominal direct)で第一回で過半数を獲得すれば、当選となるが、いままでにそのような例はなく、上位2名による2回目の決選投票で1位になった候補者の当選が確定する。過去、第1回投票で最高得票率を

      記録したのは1965年のドゴールで44.6%、決選投票で55.80%、2位はFrançois Mitterrand であった。

            被選挙人の資格を満たすには

       ― フランス国籍を有すること

       ― 被選挙資格を剥奪されていないこと

       ― 18歳以上であること

       ― 被選挙人名簿に記載されていること

       ― 公職選挙で当選した、市長、国家議員、県、市、町の議会議員、など500人以上の推薦があること

       ― 遺産相続申告を済ませてあること

       ― 所属政党の収支報告、選挙キャンペインの収支報告があること

         選挙費用は法定によるもの以外に、個人献金(4600ユーロまで)、残りは所属政党の補助金でまかなわれる。

            候補者にはテレビ、ラジオによる政見発表の機会が平等に与えられる。テレビ討論会は第一回では最低15分、第二回では1時間以内。両者の合意で決められる。

            いままでの棄権率の最低が1974年の 12.7%、最高が1999年の31.1%であった。

            過去大統領になったのは次のとおりである

         1965 Charles Degaulle

               69 Georges Pompidou

               74 Valéry Giscard d’Estaing

               81 François Mitterrand

               88 François Mitterrand

               95 Jacques Chirac

            2002 Jacques Chirac

                07 Nicolas Sarkozy

            Sarkozy は2007年、決選投票で 社会党女性党首の Ségolène Royal を破って、当選した。その時の社会党の書記長が Hollande で、Royal の内縁の夫であり、二人の間には4人の子供がいる。Royal がもし当選していれば、フランス史上初めての女性大統領になるはずであった。ちなみに、フランスで始めての女性首相は Mitterrand の2期目の任期中、1991-92年に首相になったEdith Cresson で、彼女はまた、フランス首相として最短の任期という記録をもっている。ここだけの話だが、街の噂では。かなり公然と、Cresson は Mitterrand の愛人であったというし、Chirac には日本人女性との間に隠し子があるといわれたが、私生活と公的政治家としての資質は別と割り切っているフランス人は大人だというべきだろうか。 筆者は「日本人は良く働く、蟻のようだ」といってのけた Cresson 女史が来日とき、会見した日本人のひとりであったが、あまり良い印象はうけなかった。そもそもフランスにとって日本はアフリカ諸国よりも政治的に、経済的にみて、大事な国ではないのである。

            Sarkozy は大統領当選祝賀会をシャンゼリゼの高級レストラン「Fouquet’s」で開き、これが、金持ち優先主義者として、若者達に捉えられ、負のイメージになったことは否めない。

            2012年の大統領選挙は10人の候補者で争われ、第一回が4月22日、第二回が5月6日に行われた。第一回の投票では 社会党 Parti socialiste の Hollande が一位で 28.63%を獲得、二位は Union pour un mouvement populaire (UMP) の Sarkozy, 三位は 極右政党 Le Front National の Marine Le Pen の 17.90%、棄権率は 20.52%であった。

            第一回投票の結果、目だったのは 極左政党 Le Frant de gauche の台頭で、4位、11.10%を獲得している。

            上記の10名の立候補者以外にも立候補を策した政治家がいた。社会党の場合、第一回指名選挙で 副党首の Royalが、第二回氏名選挙で 書記長の Martine Aubryが Hollande の前で敗退している。その他では、Chevènement が政界を引退して、Hollande 指示を表明し、Dominique Strauss-Kahn は例の事件でつまずいた。Alain Juppé は Sarkozy が出なければ、自分が出るつもりでいると表明していた。Sarkozy と喧嘩別れした、Dominique de Villepin は公職推薦人の数がたりずに立候補を断念している。 つくづくと歴史の移り変わりを感ぜざるをえない。

            大統領選挙のあと、6月には国政選挙 législative が行われる。これは大統領選挙のときに示された民意をそのまま、国政選挙に反映させようとするもので、かっての co-habitation のような一種のねじれ現象が政界に起きないようにするためである。

      Mitterrand 大統領のときにChirac が首相、Chirac が大統領の時、社会党のリオネル・ジョスパンが首相で、ぎくしゃくし、co-habitation が長引くと政権は弱体化する、といわれている。

            橋下大阪市長の率いる「維新の会」が注目を浴びているが、ハシズムでは首長公選制を八策のひとつとしている。また市長でありながら、国家議員であることを認めているフランスの制度に賛意を示している。

            今回のビデオで懐古趣味の老生の目を引いたのが二つあった。ひとつはマロニエの花である。Marronier は語感として、焼き栗や、Marron glacé などの栗のなる木を思わせる。事実秋に地上に落ちた実を拾って見ると、まるで栗そっくりである。しかし、マロニエは「セイヨウトチノキ」で、栗の木ではない。日本の「トチノキ」とも違うようである。 日本の橡の実は「橡餅」などにして食用とするが、「セイヨウトチノキ」の実は人畜とも食用にしない。弱毒性があるからである。英語で horse chestnutと言うのは、昔、馬の呼吸器障害に薬用効果があると信じられたからである。 栗の木は chataignier である。「ヨロッパグリ」と訳されている。

            もうひとつは屋根の上の mitron である。パン屋の小僧の意味だが、1900年初頭には 煙突の排煙塔のことも mitron と言った。今では、暖房は「集中式ステイーム暖房」chauffage central で、薪を焚くところは少なく、mitron の実用性は失われている。しかしパリには欠かせない屋根の風物詩として残されている。

            鹿島茂「パリの秘密」によると、19世紀末まで煙突掃除はサヴォワ人の子供Petit savoyard の仕事と決まっていて、ramoneur (煙突掃除屋)と呼ばれた。パリの街頭で見かける焼き栗売りも、出稼ぎのsavoyard たちで、石焼なべ、木炭コンロ、手押し車はいまでも18世紀のものと変わらないそうである。二世紀の間に調理用品、厨房器具は無限に変化し、デザインも変わっているが、栗売りの道具は変わらないのだ。どうしてだと、フランス人に聞くと「変える必要のないものをどうして変えるのか、栗売りは栗売りだ、ほかにありようはないじゃないか」と、質問に驚くと、書かれている。


      虎と小鳥のフランス日記 第48話 パリ・ロマン派美術館を見て

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        虎と小鳥のフランス日記 第48話 パリ・ロマン派美術館 を見て

              老生は寡聞にしてこの美術館のことを知らなかった。Camille に教えてもらったのは、美術館の名は Musée de la vie romantique,  もともと、ロマン派画家Ary Scheffer の住居、アトリエのあったところだという。

        Ary Scheffer(1795−1858) はオランダ出身で、フランスに帰化、出身地のオランダ Dordrecht には 死後、 記念像が建てられている。ショパン、リスト、などの肖像画家として知られている。ゲーテの「ファウスト」に心酔し、マルグリットをモデルにした作品を数点残している。また、「自由の女神」の作者 Bartholdi は Scheffer の弟子であったという。

        パリには、画家が生前住居、アトリエを構えたところが、その後美術館になった例はモロー美術館、ドラクロワ美術館などあり、ともに訪れたことがあるのに、ロマン派美術館を知らなったのは、何故だろう。この機会に ロマン主義とは何か、一夜漬けで調べてみた。

              英語でRomanticisme, フランス語で Romantisme, 日本語では時として 浪漫派 (浪曼派)と呼ばれることもある。

        最初、18世紀にイギリスとドイツで生まれた芸術思潮で、のちに19世紀初頭にフランス、イタリア、スペインで開花した。ここでは、しばらく、フランスに限定しておこう。

              フランスでは1820年に始まり、王政復古、を経て、1850年まで続く。1850年にバルザックが死んでから、勢いを失い、その座を写実主義、自然主義、高踏派など譲る。 比較的短い期間であった。1920年代に、後期ロマンテイストとでもいうべき、一郡の新人が現れる。モーリアック、モンテルラン、マルタン・デユ・ガール、レイモン・ラデイゲ、ジャン・コクトーなど、とフランス文学史に書かれている。

        ロマン主義は一言でいえば、その前の17世紀、18世紀の古典主義にたいする真っ向うからの挑戦であった。 古典主義の 理性、客観性、合理性に対して、ロマン主義は感情、主観性、幻想性を標榜した。古典主義が軽視してきた、エキゾチズム、オリエンタリズム、神秘主義、夢といった題材が好まれ、それまで教条主義によって抑圧されてきた個人の感情には、「憂鬱、「不安」、「動揺」「苦悩」「個人的愛情」が大きく取り上げられた。自我の自由な表現を追求したとも言える。既成の社会体制への反抗、自然のなかへの逃避、情熱的、絶望的な恋愛と自殺への思考、不合理なもの、神秘的なものへの憧れがみられる、という。

        ロマン主義の影響は、文学、絵画、音楽に現れる。

        文学の系譜で言えば、

        前ロマン主義(1759−1800)として、著名なのは デイドロ、

        第2期        (1800−1820) シャトーブリアン、スタール夫人、

        第3期        (1820−1830)確立期、ラマルチーヌ、ヴィクトル・ユーゴ、(エルナニ)アレキサンドル・デユマ父 (三銃士、モンテクリスト伯)ゴーチエ、バルザック、スタンダール、 メリメ、

        黄金期 (1830−43)ミュッセ、ユーゴ(ノートルダムのせむし男)ジョルジュ・サンド

           絵画では 前ロマン主義が 1770−1822,グロ、ダビド、ジェリコー(Le Radeau de la Meduse 1819)、ロマン主義全盛期(1822−1843) ドラクロワが Massacre de Scio を発表したのは1824年、Sardonapale は 1827年、後期ロマン主義(1843−1870)はリアリズムの中でわずかに息づいていたにすぎない。

              音楽の世界では、簡単音楽史(西洋編)がまとめたのを見ると、フランス以外の音楽家を含めて、前記ロマン派としてベートヴェン、ウェーバー、シューベルト、中期ロマン派として、メンデルスゾーン、マイヤーベーヤー、シューマン、ショパン、ロッシーニ、ドニゼッテイ、ベッリーニ、ヴェルデイ、ロマン派音楽の新傾向の作曲家として、ベルリオーズ、パガニーニ、リスト、ワーグナー、新古典ロマン派、ブラームス、フランク、ラロー、サンサーンス、フォーレ、ショーソン、グノー、ビゼー、ドリーブ、ズッペ、ヨハン・シュトラウス、マスカーニ、レオンカヴァロ、プッチーニを挙げている。

         Romantisme の語源を探ってみよう。まず、roman という言葉の意味である。紀元前58年−51年、ジュリアス・シーザーに占領されたゴーロア人(現在のフランスの先住民族、ケルト族)は、ローマ占領軍兵士の喋るラテン語に同化していった。このラテン語は上流階級のしゃべる latin classique(文語) と違って、latin vulgaire (口語)であった。その差は最初はさほど大きくなかったが、gallo-roman として定着して行く間に差は広がり、「ロマンス語」となる。同じ事が、ローマ軍によって占領された、スペイン、ポルトガル、ルーマニヤでも起こる、古典ラテン語は、知識のない庶民にはもはや理解困難な言葉となる。この時代のロマンス語で書かれた文学作品がロマンスである。

        これは、ギリシャ・ローマの古典文学の対立概念である。roman とは「ローマの」という意味を失って、庶民の文化という意味になったのである。グレコ・ロマンはキリスト教以前の古代文化であるが、「ロマン」はこれと対立する文化で、キリスト教が根付いている。古代文化が、raison, calme, simplicité, noblesse, clareté を追求したのにたいして、「ロマン」が意図的に求めたのは、l’inaccessible, le merveilleux, le fantastique, le mystérieur であった。これはいわば中世のロマン派で、宗教心と騎士道が中核になっていた。この歴史的背景があって、上述の前ロマン主義期(1759−1800)に入って行くのである。

              一方、日本のロマン主義作品は、森鴎外「舞姫」(1890)樋口一葉 「たけくらべ」「にごりえ」(ともに1895)、泉鏡花「高野聖」(1900)「歌行燈」(1910)、などで、国木田独歩は「武蔵野」(1898)を書いたあとロマン主義から自然主義に変化していった。

              詩については森鴎外の「於母影」島崎藤村「若菜集」土井晩翠の「天地有情」などのロマン主義的詩が浪漫詩と呼ばれた。

              短歌では、与謝野晶子「みだれ髪」石川啄木、窪田空穂。啄木はその後自然主義に転じ、「一握の砂」「悲しき玩具」を発表、北山牧水が続いた

              日本のロマン主義は、ヨーロッパに遅れて始まり、より短命に終わった。

              筆者は少年期には、ユーゴの「レミゼラブル」「ノートルダムのせむし男」 アレキサンドル・デユマの「三銃士」「モンテクリスト伯」を読んた。 青春時代にはバルザック、スタンダールを読んだ。今思えば、ローマン主義の作品である。ロマン主義という、比較的短い期間に台頭し、衰退した、芸術思潮を文学史的に捉えたことはなかったが、その時期の名作のいくつかに親しんでいたわけだ。名作はその作品に付けられる「。。主義」というレッテルとは関係なく、古代ギリシアの医学者ヒポクラテスが言ったように、「芸術は長く、人生は短し」「 Ars longa, vita brevis. 」時代を超えて読み継がれるのだ。

              Ary Scheffer のアトリエには、男名をペンネームにした、隣人のジョルジュ・サンド(1804−1876)がよく来ていたという。美術館の1階は サンドの持ち物だったものが数多く記念品として飾られているという。Camille に教わったことだが、サンドは絵が上手だったらしい。ただ、ここに飾られているサンドの肖像画は Scheffer が描いたものではなく、Augusute Charpentier が描いたものだ。他に Maurice Quentin de la Tour の Maréchal de Saxe のパステル画、Delacroix  Lélia が飾られている。

              ジョルジュ・サンドは読んだ記憶がない。プルーストの「失われた時を求めて」のなかでは、語り手の祖母が孫に薦めた本として紹介されている。プルーストはサントブーブには真っ向から反対したが、サンドは、少年期の愛読書だったのだろう、と想像している。     
             ビデオの最後にショパンのピアノ曲が演奏されている。アントワンヌが選曲したのだろう。「Étude en mi bémol majeur の一部である。Étude は「エテユード、 練習曲」 mi は日本語の 「ホ」に相当し、bémol は 日本語の「変」英語の flatmajeur は「長音階」であるから、「ピアノ練習曲、変ホ長調」である。
                    Scheffer の ショパン像
        Musee national du Chateau et des Trianons de Versailles


        虎と小鳥のフランス日記 第47話 美食家の楽園 を見て

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          虎と小鳥のフランス日記 第47話 美食家の楽園 を見て

                フランスは伝統的にgastronomie (食文化)の国であり、その幅と深さは計り知れない。 老生は Sobre 酒も飲まないし、gourmand (食いしん坊) でも gourmet (美食家)でもないので、このことを論ずる資格はまったくないのだが、

          ビデオを見て色々思った。

          Gourmandは、美味しいもの好き、食道楽で、よく食べる、 とくに qui aime particulièrement les sucreries, les friandises 甘いものに目がない者を言う。 Gourmet Celui qui sait goûter et apprécier les vins; connaisseur en vin.  Par  extension  Celui qui apprécie la qualité, le raffinement d'une table, d'un mets particulier. Synon. fam. bec-fin, もとはワインの目利きであったが、転じて、舌の肥えた、食通(俗語で bec-fin, または、fin-bec)を言う。 また、Gastronome Personne qui aime et qui sait apprécier (et préparer) la bonne chère. とも同義語 である 

          したがって、Gourmet et gourmand ne sont pas interchangeables. Un gastronome est un gourmet; un gourmand n'en est pas nécessairement un. On peut être gourmand de chocolat et de sucreries et n'être en aucune façon connaisseur pour les autres éléments qui constituent les plaisirs de la tableGourmand は必ずしも gourmet ではない。チョコレートは好きでも食卓を賑わす、他の美味しい食べ物について何も知らないからだ、と定義されている。http://atilf.atilf.fr/ 

          食べ物に関しては、よくフランス人とシナ人は似ていると言うのは、両国民とも食べ物については独自の深い文化を持っているからであろう。これに反して、ドイツ人と日本人は比較的に、粗食で勤勉なのか、そこに共通性があるとされている。フランスの art culinaire 料理には長い道のりがある。そこにはこんな悲劇もあった。

          François Vatel の話である。彼は、Versaille 宮殿のモデルと言われる Château de Vaux-le-Vicompte の名コック、給仕長であった。城主 Fouquet は まだ年少のLouis XIV の摂政であった Mazarin によって、財務総監に命じられ、

          1661年、まだ22歳の Louis XIV , その母親、Anne d’Autriche はじめ、宮廷人を多数Vaux-le-Vicompe に招いて 新築の城の完成を祝す宴会を開いた。Vatel は80席のテーブル、30席のビュッフェ、雉、うずら、ホオジロ、ヤマウズラを5回サービスした。ホストには純無垢の金食器、宮廷人には銀食器が使われた。Lully の室内楽が24丁のバイオリンで奏せられ、 Molliere はバレー付き即興喜劇を演じた。デザートに Vatel は 当時まだ知られていなかった、砂糖味の泡クリームを出した。後にこれが crème chantilly と呼ばれるようになった。

                当時30年戦役を控え、貴金属席の食器を鋳直して、戦費を調達したかった

          Louis XIV は、自分のFontainebleau の宮廷を上回る贅沢な饗宴に、自尊心を傷つけられ、この法外な宴会を催したFouquet を即時逮捕し、不当に蓄財した者の金を国庫に返金させると宣言した。Fouquet は更迭されColbert が後任となった。

                Louis XIV は Fontainebleu 宮殿に替わる壮大なVersailles 宮殿を新築し、そのために、Vaux-le-Vicomte の建設、運営に関わったものをそっくり、Versailles で使おうとしたのだが、Vatel はそのことを知らずに、逮捕を恐れて英国に亡命した。Fouquet の友人Gourville Vatel を説得、Le Grand Condé の パリー東北のChantilly 城の給仕長になることをすすめる。そこで、彼は料理だけでなく、食材の調達、調理、配膳など、城の食べ物のすべてを任される。

                Le Grand Condé は、数年を費やして、Chantilly 城を改築、Louis XIVとのよりを戻すため、33歳の国王、及び Versailles の廷臣3000人全員を Chantilly に招待する。王が進めている対オランダ戦役の戦費の調達にも手を貸すためである。この饗応作戦の成否は王の接待がうまく行くか否かにかかっている。Vatel は2週間の準備期間で、王と廷臣をアット言わせる、もてなしをすべく、宴会は3日3晩続くことになっていた。

                1671年、4月23日、王たちは 盛大に狩りをしたのち、Chantilly に入城する。一同、まぶしく照明された宴会場の25のテーブルに座る。夕食のあと、2時間のスペクタクルが上演され、花火とともに終演した。花火は霧のため完全な成功とはいえなかった。

          しかも予定よりも75人多く招待されたので、ローストビーフが2テーブル分足りなかった。Vatel は不名誉なことだ、このような不始末には耐えられないと何回も繰り返した。12日間寝ていないので、Vatel は上述のGourvilleに自分の代わりに采配してくれと依頼する。夕食会が済んだあとLe grand Condé は Vatel の部屋に行き、料理が素晴らしかったと励まし、ローストビーフが2テーブル分たりなかったことは気にかけるなと告げた。

                翌日の24日は、肉なし日である。Vatel は川魚を出すことができない。川魚はあまりにも陳腐であるし、それに、4月には魚(鮭、鱒)がそれほど捕れない心配もあった。彼は、Chantilly から200km 以上離れた、ノルマンデー海岸の複数の漁港に買い付け人を送った。パリの魚市場で金曜日に魚を売るには、水曜日の午後か木曜の早い時間に漁港に荷揚げされる必要がある。4月末のパリーの需要に答えられるのはこの地方の漁港だけである。しかも同じ種類の魚で、量、質ともに不揃いである。 Vatel が複数の漁港に買い付け人を送ったのはこの理由による。

                24日の早朝、Vatel は4時には到着するばずの魚を待っていた。この時間に到着したのは2箱だけであった。彼は8時まで待った。 なにも入ってこなかった。Vatel にとっては不名誉の極致である。彼はGourville に言う。「もうこれ以上、侮辱に耐えられない。私の名誉はむちゃくちゃだ。」 彼は自分の部屋に駆け上がり、ドアに固定してあったサーベルに3度我が身を打ちつけ、名誉を守るため、自刃した。とその時、大量の魚が到着した。Vatel 時に40歳であった。

                Vatel を高く評価していた Le grand Condé はその死を知って、涙した。

          王はCondé に言った。 「この城に5年間こなかったのは、自分がくれば、どのくらい費用がかかるか判っていたからだ。Condé は王と自分の席2席分だけ用意すればよかったのだ。他の廷臣たちの心配は無用のことだ。Condé にこれほどの宴会をさせたことを、余は、悔やんでいる」と告げた。魚は到着したが、招待客は Vatel へ敬意表するため、手をつけなかった。Gourville は自分の誤りを許してくれと願いながら、饗宴が終わるのを妨げないようにひそかに Vatel を埋葬した。

                この饗宴は宮廷人から高く評価され、 Le grand Condé はふたたび 国王ルイ14世の重民に復帰した。Vatel は伝説の人物になった。

                日本でもよく知られているフランスの食通は Brillat-Savarin (1755-1826) で、その主著 La Physiologie du goût は「美味礼讃」の名で翻訳されている。 “Dis moi ce que tu manges, je te dirai qui tu es”

          がよく引用されている。 

          筆者は現役時代、フランスの料理屋には客として招待される機会がよくあったから、招待してくれる人が注文するのをそのままオオム返しに注文したし、ワインの選択にいたっては、全く知識がないので、もっぱら je vous suis と招待者の選択に従った。失礼にはならない方法だが、その反面、メニューもワインも、いつまでもわからないままでいる。 たまに一人のときメニューを見て自分で決めると出されたものが想像したものとはまるで違っていることがよくあった。 相当の訓練が必要だ。知り合いのフランス人に言わせるとワインについてとやかく言えるようになるには毎日飲んで

          30年はかかるとのことだ。

          今のフランス人に人気のあるフランス料理について2006年にアンケートした結果が手元にある。上位27料理は次の通りである。

          1.La Blanquette de veau              25%

          2. Le Couscous                          22%

          3. Les Moules frites                   20%

          4. La Côte de boeuf                  

          5. Le boeuf bourguignon

          7. Le pot-au-feu

          8. Le la lapin à la moutarde

          10. Le steak frite

               La choucroute

          13. Cassoulet

          17. L’hachi parmentier

               Boudin aux pommes

          22. Le petit salé

               La poule au pot

          26. La quiche lorraine         4%

               La potée                              2%

          これで見ると、典型的なフランス料理と言われた、La tête de veau, les moules marinière, les harengs pomme à l’huile, l’andouillette などはランクされていない。 若いフランス人の好みが変わってきたのだろうか。

               10位にランクされている、le steak friteは、多くのパリジャンが言うように、典型的な「パリー料理」ではないだろうか。 秘密は frite にあると思う。このフライド・ポテト、知り合いの、東京に在住するパリジャンが恋しさの余り、東京の自宅で、何回も挑戦してみたが、パリーの味を再現できない。日本のメリ・クインや男爵いもでは駄目なのかとわざわざパリからじゃがいもを取り寄せたり、油を替えたり、2度揚げしたり試行錯誤したが諦めるよりしかたがなかったという。あたかもロンドンで飲むミルクテーがパリーでも東京でも再現できないと同じく、何か秘密があるのだろう。

           デザートの人気は上位から下記の通りである。

          1.       La salade de fruits                     26%

          2.       Les îles flottantes                     21%

          3.       La tarte Tatin                           19%

          4.       La mousse au chocola                    18%

          5.       Les profiterolles                        16%

          6.       Les glaces                                 13%

          La crême brûlée

          7.       Le baba                                      6%

          La crème caramel                         

           

                Camille Aux Pipalottes gourmandesで、飲み物として頼んだのは une carafe d’eau だった。これは ミネラルウオーターは要らないという注文である。Un verre d’eau, 又は 単にde l’eaus.v.p とも言う。 ただの水道の水である。Pastis を頼むと一緒にもってきてくれる。 Pastis を飲むのは労働者階級に多いからか、ガルソンはミネラルウオーターはいかがとは聞いてこない。フランスの水道水は硬水だから飲まない日本人もいるが、水道水に衛生上何の問題もない。De l’eau au robinet 蛇口をひねると出る水だが、これを頼むのと無料なので、気が引ける場合、もうひとつの言い方として Château La Pompe あるいは、Château La France とあたかも、高級ワインのAppellation によくある Château を冒頭に持っていると良いと, ガルソンに教わったことがある。 日本では昔、鉄管ビールと言ったが今では、死語だろうか。

                フランス料理の終わり、デザートの前は、しばしば fromageの時間 である。数種類のチーズを plateau ()に乗せてきて、客に好きなのを選ばせるが、食事が copieux だったら、省いてもよいし、物足りなかったら、fromage を余計に食べることもある。Un repas sans fromage, c’est un baiser sans moustaches と言うが、老生はひげはないので、その意味はよくわからない。

                ドゴール将軍だったと記憶するが、「フランスには365種類のチーズがある。このような国民を統治するのは至難な業だ」と言った。Wikipedia を見たら、それは格言みたいなもので、毎日1種類づつ違ったチーズが食べられるという意味で、実際には1000種類のチーズが作られているとのこと。

          現役のころパリで世話になった秘書の女性を夕食に招待したことがある。すると彼女が選んだのは、まずデザートからであった。今日はこのデザートを最後に食べたい、その前にはこの料理がいい、するとワインはこれだ、すると、アペリテイフにはこれがよいと、彼女は言うのだった。 今でも残る思い出のひとつである。

          日本の料理店のミシュランの評価が年々上がっているようだ。フランスでは三ツ星が26軒なのに、2012年4月現在日本には35軒ある。うちフランス料理店は5軒、スペイン料理が2軒である。あとはすべて日本料理だ。パリにも日本の食材を扱う店が増えていると聞く。日本料理も奥が深いのだ。


          虎と小鳥のフランス日記第46話 小春日和のパリー を見て

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            虎と小鳥のフランス日記 第46話 小春日和のパリ を見て

            パリのカフェ

            Café にはふたつの意味がある。飲み物としてのコーフィー、そして施設(établissement)としての 店舗。 ここで取り上げるのは後者である。カフェは単にコーフィーを飲み物として提供するだけの場所ではない。コーフィー以外の飲み物もあるし、例えば、レモネード、パンチ、アブサン, ビール、ワインなど、食事も出る。サラダ、軽食もあるが、本格的な料理を出す店もある。 食べて、飲む場所かというと、それも違う。友達と会う場所であり、集団で会合することもあり、ブリッジをしたり、ビリヤードで遊んだり、一人で、リラックスして、日溜まりのなかで、人の往来を見たり、本を読んだり、書いたりする場所でもある。他の国とは違ったカルチャーである。オランダ で、Coffee shop とはマリハナが許容されている店だというし、日本でキャフェというば、女性が給仕する風俗営業店である。パリではGarçon が給仕する。

            カフェが世界で初めて登場したのは、1554年トルコのコンスタンチノブルだと言われている。 すぐにヨーロッパに波及し、ヴェニスで Mokaが人気となったのが1615年。1640年にはウイーンへ。オスマン・トルコを撃退したオーストリー兵が見つけたのは敗残兵の持っていたコーフィー豆のサックだった。フランスでは1644年にコンスタンチノーブルに滞在した商人が、マルセイユに持ち帰り、1660年には開店、やがて、リオンがこれを模倣した。

            パリーではレヴァントから来た商人がSaint-Jacques 通りに開店、繁盛しはじめたのは、1669年。モハメッド6世が、ルイー14世に送った特命大使が日本製の磁器にコーフィーを注いで来客をもてなした時からだという。 フランス・コーフィ店の最老舗であるProcopeは シチリヤ島パレルモ出身の、フランス帰化名Procope が1677から開業、1702年には、Commédie- Française の正面に Procope の店名を付け、店は文人たちで賑わった。以来、アンシヤン・レジームの伝統、迷信、独裁の世の中をカフェーが変えたとも言える。

            Le comptoir d’un café est le parlement du peuple

            「カフェのカウンターは庶民の議会だ」、とバルザックは言った。彼自身、パリーのど真ん中でカフェを開くことを一時夢見ていた。友人に宛てた手紙のなかで、「俺が開く店はいまで、どこにもない店になる。 レジにはGeorge Sand を据える。 千夜一夜物語の再現だ。Gautier がガルソンとして俺に給仕するだろう」 と書いている。

            ちなみにカウンターに立ち飲みするのが一番安く、次が店内のテーブル席、テラス席はカンター席の2,3倍くらいするのが普通だ。

                  Café littéraire というは今でも数カ所残っている。コーフィーを飲むためではない。コーフィーの替りに、ボジョレー、アルマニャック、集まるのは文人たち。又は、文人をめざすもの、文人を自称するものたち。このようなカフェーを研究するとアル中の研究にもなるという人もいる。Salon littéraire と違うのは、サロンは、定期会合制であり、会員に資格制限がある。 カフェにはいつでも行ける、いつでもだれかがいるという点である。カフェでは金持ちでも、退屈な人間とみなされれば軽蔑される。

                  そもそもカフェが定着する前にすでに、Boileau, La Fontaine, Racine, Molière らは、友人、仲間たちとワインを痛飲していたのが、文人カフェに引き継がれていったのだろう。

            上述した Comédie Française の正面にできたフランス最初のProcope のカフェには劇場関係者、脚本家、役者、ゴシップ記者が、大理石製のテーブルの周りに座る。 それ以外にもLa Fontaineが最初の常連客として加わる。 

            やがて Diderot, Voltaireが、そして、ときとして Jean-Jacques -Rousseau も来るようになった。 百科事典、随想録、告白は、ここから生まれた、と言える。しばらくして、フィガロの結婚を書いた Beaumarchais も加わるようになる。

            Procope のライバル店が各所にできる。Le Neveu de Rameau の著者 Diderot は、寒い日、雨の日、好んで、Rey の店に来て、「チェスの試合したり、見るのが楽しみだ。パリでここが一番チェスに向いている」と書いている。Reyの店長は傲然と、ガルソンたちに「お前はJean-Jacquesの給仕をしろ、お前はVoltaire だ」と指図したという。

            Café militaire 軍人カフェと言うのもできた。その成功の秘密は給仕長が、軍事年鑑に通じていることであった。 来店する軍人の軍歴、出自、家族構成なども諳んじていたのだろう。 財界人、金融関係者だけが集まるカフェも登場する。

            パリには18世紀の始めには300軒、フランス革命前には1800軒のカフェがあった。革命中、いくつかのカフェはクラブに変貌し、変わらないものも政治色を濃くして行く。 政治発言力を得た、女性客も増える。Procope の店にもDanton, Marat, Robespierre が来る。Musset, Verlaine, Anatole France も。しかし、革命は政治体制を変えてもカフェを変えることはできなかった。

            1813には、その数は3000となり、なお増え続けた。それぞれの階級、職種の客がそれぞのの店に通った。Il y a des cafés pour tous les goûts, pour toutes les bourses, pour toutes les opinions, puisque chacun d’eux a son drapeau. と言われた。 朝、昼、夜で、客層は変わる。 Baudelaire, Courbet, Monet が好んだのは Montmartre のカフェ。Marcel Proust が好んだのは Brasserie Welber, rue Royale にあった。

            有名なカフェとして、Saint-Gemain Café de Flore がある。Flore とは春の女神の名前だが その彫像があることが店の名前の由来である。 1913年、Apollinaire はその一階を自分の編集室とし、André Breton, Louis Aragon などと大論争を繰り返したした。1930年代には Giacometti, Zadkine Picasso が毎日通った。その後、Sartre, Simone de Beauvoir が本拠地としたので有名である。実存主義の総本山?

            Café de la Paix はオペラ座の近くにある。1862年に、Grand Hôtel のレストランとして開店。映画も上映した。 完全なナポレオン3世様式の建物で、現在はHôtel InterContinental が入っている。19世紀末の有名顧客として、Tchaikovski, Massenet, Zola, Maupassant がいた。

                  Les Deux Magots も SaintGermain にある。Magot とは中国製の人形で、二つ店内におかれている。1873年、もともと同じ場所にあった、洋装店が、生糸の原産地のイメージを看板にしたものを使用している。 このカフェを愛用したのは、Verlaine, Rimbaud, Mallarmé である。Existentialistes が誕生するはるか前の 1894年にAndré Breton の庇護のもと、Surréalistes たちが愛用した店である。

            Fouquet’s は、シャンゼリゼー目抜き通りにある。開業は1899年。100年後に大改装している。フランスの映画アカデミ賞 Césars の授与式と晩餐会で有名だが、2007年 大統領選挙に勝利したサルコジがここで祝勝の宴を開いたことでも有名な超一流 café-restaurant。 日本でも名前にあやかった 凮月堂(東京) フーケツ(神戸)がある

            店のほうも、他店と区別化してその特徴を鮮明にする。Café-dansant, ダンスカフェ、Café-concert 音楽喫茶、Café chantant 歌声喫茶、Café philosophique 哲学カフェ、Café chrétien, キリスト教カフェ,Café -brasserie, Café-bar など。今では、Cybercafé, Manga Café もあると聞く。

            老生も観光で疲れた時や、次の目的地はどこにあるか、そこで何を見ようかと、ガイドブックた地図を広げたり、街の佇まい、人の往来を、エスプレッソをのみながら、楽しんだことを思い出す。日本ではなかなか味わいない雰囲気である。 先日の北朝鮮の人工衛星打ち上げ失敗を voué aux gémonies 恥さらしだ」と酷評する、mauvaise langue口の悪いフランス人は日本のコーフィーは不味くて飲めない。C’est pas café, C’est qu’un jus de chaussettes 靴下を洗濯したような色つきのジュースなようなもの、などという。 日本式の café allongé も捨てたものではない、と思うが、コーフィーの味はその国の食文化の一端であり、食事する場所の雰囲気、匂い、給仕人、陪食者の衣装、物腰、特に食事の内容と密接に関連している。 最後に食べた料理の残り香にマッチしているかどうかでも決まるのではないか。

            統計的には、1960年フランス全体では200 000軒、しかし、2008年には36000軒。そのうち27000軒が飲み物だけを提供し、タバコ、切手を併売しているが9000軒だそうだ。下図はVoltaire et Dedrot au Procope


            虎と小鳥のフランス日記第45話 音楽の街・ピガールを見て

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              虎と小鳥のフランス日記第45話 音楽の街・ピガール を見て

                    今回のビデオは二重の意味で懐かしかった。1966年老生がフランス政府留学生として初めてパリーの地を踏んだとき、留学先が用意してくれていた安宿がこの近くにあった。朝食だけつくホテルで、ほかは総て外食。日本食党なので、ご飯を炊いたり、味噌汁を作ったり、魚が焼けるようなところが欲しいと留学先に申し入れたら、studio というキッチン付きの別の宿を紹介してくれた。 そこに移るまで、ピガール界隈に毎晩、晩飯に出かけた。 ビデオを見ると、店は変わっているが、街の佇まいは変わっていない。

                    もうひとつ懐かしかったのは楽器の店の紹介であった。 富士山の見える沼津の小学校の5,6年生のころ、ブラス・バンドでクラリネットを吹いていた。ヘタくそだった。その後尺八に変えたが、これも物にならず、楽譜もハ長調しかよめないままでいる。いまは聴く専門である。

              Camille Rue de Douaiで、探し求めて、ついに30ユーロで買ったのは、サキソフォン用の負革であった。ビデオの中では、Cordelière と説明されていたが、この言葉は初めてなので、字引を引いてみた。Corde à trois nœuds que portent les cordeliers autour de leur taille」「Cordeliers が腰にまく、結び目がつある紐、帯縄」 と定義されている。では そのCordelier とは? 「サンフランシスコ派修道院の修道士、修道女(Franciscains, Franciscaines)は 腰にCordelière を巻いていたので、Cordelier と呼ばれる。Cordelière は清貧 (pauvreté)を象徴している」とある。これではどのような紐, 帯縄なのかよくわからない。それらしい絵を見つけたので、文末に挙げておく。

              織田先生はストラップと訳されている。 Strap を普通のフランス語ではどういうのだろうか。Ceinture, Courroie などがあるが、Bretelle が相応しいようだ。なぜなら、piano à bretelle(s) とは俗語で アコーデオンのことだし、

              soutien-gorge sans bretelles とはストラップレス・ブラだから。 最初soutien-saxophone, soutien-guitare というのかと思ったが、そういう言い方はないようだ。

                    さて、サキソフォンのことである。Camille がこの楽器を演奏するとは今までしらなかった。老生の失敗談がある。サキソフォンはキンピカの金属製楽器なので、金管楽器だと思っていたが、実はこれは木管楽器なのだ。ベルギーの吹奏楽団長サックスが1846年に特許権を獲得した新しい楽器で、すべて金属製である。管弦楽、吹奏楽両方の木管群の音量、音色の充実を意図して開発したものだが、現在では主に吹奏楽特に、ジャズで脚光を浴びている。豊かな音量と、肉感的音色が特徴である。

              どうしてサキソフォンが金管楽器でなく、木管楽器なのか。それは発音の原理による。 サキソフォンは、クラリネットと同じく、シングル・リード(anche, 英語は reed)を使って音を出す仕組みの楽器である。 同じ木管楽器のオーボエ、ファゴットはダブル・リードである。

              リードは楽器の歌口に装着され、奏者の口内の息の流れにより起動し、発音体の役目を果たす舌状の物体である。素材には葦(roseau)の茎が用いられ、南仏原産のものが最良質とされている。 寿命は短く、最良の状態は数日しか続かない。 Pascal は L'homme n'est qu'un roseau, le plus faible de la nature; mais c'est un roseau pensant. と言ったが、 roseau は chantant, résonnant でもある。

              小学校のころの筆者のクラリネットは背の短い、S-クラと呼ばれ、(ソプラノ・クラリネット、スモ―ル・クラリネット?)そのリードは竹製で、常に小刀で削って、メンテナンスしたものだ。

                    ここでフランス語の楽器の名称をおさらいする。オーケストラ(Orchestre) , 次の3つの楽器群で構成されている。

              1)            管楽器 Instruments à vent

              2)            打楽器 Instruments à percussion

              3)            弦楽器 Instruments à cordes

              これに、協奏楽器として、鍵盤楽器 Instruments à clavier が加わることがある。

              管楽器

              1)            木管楽器 bois 英語は woodwind

              2)            金管楽器 instruments de cuivre  英語は brass

              に別れる

              木管楽器には シングル・リードのクラリネット clarinette, サキソフォン 

              sazophone, ダブル・リードの オーボエ hautbois、ファゴット basson

              歌口の角で発音する フルート fl­ûte などがはいる。

              金管楽器は唇を振動させて音を出す。マウスピースを使う。多くの場合金属製だが、材質とは無関係である。代表的なのが、ホルン cor, トランペット trompette, トロンボーン trombone, テユーバ tuba, コルネット cornet à pistons

              打楽器には 皮を張った膜鳴楽器として、 太鼓 tambour テンパニー timbales

              体鳴楽器 idiophone として、シロフォン xylophone、ベル cloche, シンバル

              cymbales、マリンバ marimba などがある。 Antoine のセリフのなかにある、、

              batterie というのは 打楽器群一式のことを意味する。

              弦楽器

              擦弦楽器弓奏楽器 ヴァイオリン violon, ヴィオラ alto, チェロ violoncelle コントラバス:contrebasse ヴァイオリンの弦は羊の腸(ガット)で、弓は馬の毛でつくるという。ヴィオラとチェロが英語と違うので要注意。

              撥弦楽器 ギター guitar, ハープ harpe

                    ここでまぎらわしいのを選んで挙げておく ホルンである。普通ホルンと言えば、フレンチ・ホルンのような金管楽器である。 これに対してイングリッシュ・ホルン cor anglais というのは、形も種族も全く別の、木管楽器である。写真参照 ウインフィルの使うホルンは他のオーケストラのとは構造も音色も異なる。そのメンテナンスは日本で行われていると聞く。

                    次はファゴット。イタリア語で薪束を意味するが、英語では隠語で別のものを意味するので、バスーン bassoon と呼ぶ。これは フランス語の basson 低い音」から来ているが、本家本元のフランスの basson は、もうフランスのオーケストラでは使われなくなった。世界中のほとんどのオ―ケストラが使っているのは、ドイツで、19世紀に生まれたヘッケル式である。フランス式と構造が違うので演奏法も音色も全くといってよいくらい、異なっている。 フランス音楽は、作曲者が、フランス式楽器の音色をイメージして作曲しているので、 たとえば、ドビユッシーを愛する人々は、いまでも古来楽器のbasson の演奏で聞いている。しっくりくる。演奏するのは、ドイツ式より難しいという。

              楽器を演奏することを jouer du piano, de la flûte, de la guitare という。 これに対して、ゲーム、スポーツは jouer àという。  aux cartes トランプをする au tennis テニスをする à la marelle 石蹴りをする

                    沼津の小学校のブラスバンドで筆者より上手にクラリネットを吹いていた同級生はその後建築家になったが、余技としてファゴットをよくし、千代田フイルハーモニーの団長であり、現役のbassoonist 、ファゴット協会の副会長の要職にある、半澤重信君である。 まだ、現役で、公私共に多忙であることを祝いたい。




                ホルン 金管楽器    イングリッシュ・ホルン 木管楽器


              虎と小鳥のフランス日記第44話 パッサジュジュ・デ・パラノラマを見て その2

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                虎と小鳥のフランス日記 第44話 パッサジュ・デ・パノラマ その−2

                前稿を投稿したのち、安西慶応大学名誉教授から色々教えて頂いたので、切手の項を補足する。教授は理科系の教授であられたが、余技として切手研究家であり、安西修悦のペンネームでその成果を発表されておられる。今回Camille が見た切手の定価表について、色々伺ってみた。

                Camille が見つけた Passage des Panoramas商店街の切手屋さんで一番高い値段が付けられているのが1917年の切手である。 第一次世界大戦は、La première guerre mondiale あるいは、単に La guerre 14-18と呼ばれるが、 戦時下の1917−18年に発行された種の切手は この記事の終わりに挙げた写真の通りである。 記念切手(timbres commémoratifs)というか、日本式に言えば、「愛国切手」で、切手の代金に義援金が上乗せされている。義援金は、郵政電報省の職員で、大戦で戦死した孤児たちの育英資金に当てられたようだ。

                最上段の左側には、二つの十字架で象徴されている墓地に黒づめの未亡人が赤子を抱いて訪れる姿である。 2c + 3c と表示されているのは、 切手の代金は 2サンチーム、義援金は 3サンチームという意味だろう。右側には二人の孤児が肩を抱き寄せる姿がデザインされている。5c + 5c

                次に、大地を2頭の馬で耕している婦人像で、薄い色は、15c + 10c、青いのは 25c + 35c. 日本式に言うと、銃後を守る婦人像という感じである。

                      その下の左側のデザインは塹壕にフランス国旗がはためいている図である。35c + 25c.  右側は Le Lion de Belfort を図柄にしている。50c + 50c 傷ついたライオンがしばらく休んでから、再び立ち上がる図で、普仏戦争(1870−71)のレジスタンスを象徴した アルザス出身の彫刻家 Frédéric Bartholdi の赤砂岩の石像をデザインしたものだ。 Bartholdi は ニューヨークにある「自由の女神」の作者である。 その「自由の女神」の原型はセーヌ川の中州に建ってる。

                      その下の二つは、同じデザインの色違いで、La marseillaise. フランス国歌のルーツとなった、François Rudeの「1792年のマルセイユ義勇兵の出撃図」で、パリーの凱旋門を飾っているこの彫刻を図案化したものである。

                      さて、どれが一番高い切手であるか。修悦氏所有のYVERT et TELLIER社発行のCATALOGUE DE TIMBRES-POSTE,  TOME 1  FRANCE 2005 によると、それは、最後に紹介した La Marseillaise ()5f 切手で、2005年価格で、一級品で4250ユーロと表示されている。Camille が見たのは2012年で3500ユーロだ。 

                    ついでに1900年発行の3種の切手については、前回紹介ずみであるが、修悦氏所有の同じカタログによると、一番高いのはMerson の 2f 切手の一級品で、2100 ユーロとなっている。Camille が見た2012年価格は 1700ユーロだった。。修悦氏がスキャンして下さったこの切手の写真も最後に掲げてある。

                修悦氏によると、同じ切手でもその切手の状態によって、価格はまちまちである。 一番高いA ランクに入るのは、2005年価格で、未使用で、糊が裏面についており、アルバムに貼った形跡のないもの 2100 ユーロ、B ランクは未使用だがアルバムに貼った形跡のあるもの、 950 ユーロ、C ランクは 手紙の上に貼ったままのもの、 305 ユーロ、 D ランクは使用済みのもので、90 ユーロだから、D ランクはA ランクの20分の1以下ということだ。

                      Le Passage des Panoramas にある Philaterie A POSTALE には修悦氏の娘さんも訪れて、価格表を入手されている。その表紙には、まさに 1900年の Merson 2f 切手と、1917年の La Marseillaise 5f が大きく表示されている。このふたつが、20世紀に発行されたフランスの代表的な稀覯切手なのであろう。しかし、もっと高い切手もある。19世紀に発行されたナポレオン3世の切手は80000 ユーロもするという。

                      発行当時の フランは現在価値でどのくらいに相当するか、フランス文学者 鹿島茂氏は、バルザックの小説に出てくる、諸物の値段をもとに算出して、19世紀末で、1f = 1000 円とされている。 老生がプルーストの小説を読むときもこのレートを頭に入れている。

                      自分で切手を収集したり、研究したりしたことはないが、切手、特にフランスの切手に関して何かを調べたいときは、修悦氏にお世話になっている。 切手の図柄、価格、国名の表示の変遷をみるのは、楽しい。フランスの歴史と読むのと同じだからである。


                虎と小鳥のフランス日記 第44話 パッサジュ・デ・パノラマを見て

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                  虎と小鳥のフランス日記 第44話 パッサージュ・デ・パノラマ を見て

                  Passage とは「通路」「通り抜け」であるが、今回のビデオでも一般的にも、それは、Passage couvert を意味している場合が多い。Couvertとは「屋根付きの」、すなわち、鉄骨製、ガラス張りの、自然採光式(éclairage zénithal)屋根で覆われている。 日本語で言えば屋根付きアーケードである。

                  Passage は誰が発明したのか、特定できない、と, フランスの百科事典 Universalis は解説している。 パリーに最初に登場したのは、18世紀の終わりである。19世紀のはじめには、パリーで、ついでロンドンで盛んに作られ、次第に他のヨーロッパに首都、地方に波及して行った。

                  この建築方式が独特であり、審美的であると認められるにはかなりの時間がかかり、19世紀の大発明の一つであると認識されたのは1970年代であると、この百科辞典は結んでいる。

                  Passage の特徴は建物を貫通したGalerie (通り)を作るか、最初から建物と同時にGalerieを作るか、いずれにしても中央に通りがあることである。パリーの場合、圧倒的にセーヌ右岸に集中している。旧城壁を撤去し、グランブールバールとし、その両側に見世物小屋、住宅地を次々に建設したとき、富裕層であった住民の「flânerie ぶらつき」の場所とし、彼らを客として呼び寄せるために作ったのである。織田先生の解説にあるように、ここにくれば、風雨(intemperie)の心配もなく、汚れることなく、( sans se salir) , 悪臭もなく、騒音(vacarme)、もちろん、車の通行がなく、安心して、色々なショッピングができる。 天上から差し込むÉclairage zénithal の独特の採光も人気のひとつであった。 Passage は、のちには、粋なRencontres (出会い) の場ともなった。

                        1786年に作られた、Palais Royal の木造、ガラス張りのpassage がその嚆矢ではないかと言われている。フィリップ平等公が、宮廷の費用を助成金として与え、一種のbazarsouk として、王宮庭園両サイドを橋渡しする格好で、商人たちに便宜を提供したのである。 大革命から王政復古、1830年革命にいたるまで、市民で大賑わいであったが、あまりの雑多さを Balzac は口を極めて酷評しながら、描いているので、その雑踏ぶりは容易に想像できる。

                  殆どのpassage は19世紀前半に作られ、一時パリーだけで150箇所あったが、Haussmnn 計画で、道路が拡張され、また一方、百貨店が登場するにつれて、passage 離れが始まり、現在残っているのは 約20ヶ所である。そのなかにはPassage des Panoramas も de Lido も含まれる。

                        現在、3つのpassage 巡りコースがガイド付きで観光客に提供されている。1)Élégance de Paris, 2)Paris, ses grands boulevards et ses distractions, 3) Un Paris historique である。 料金は 10ユーロ。

                        しかし、一方では、passage 復活計画もあるようだ。 一つは 旧 Les Halls 現在のForum の再開発計画であり、もうひとつは  Marché Saint-Honoré 計画である。 近く La galerie de la Madeleine の延長の passage がオープンする。 これらは、通りの幅をさらに拡大し、採光をよりよくした、21世紀版である。Passage 人気がこれで蘇るのだろうか。

                  前置きが長くなったが、Passage des Panorames である。Le boulevard de Montmartre La rue Saint-Marc の間の、旧Monmorency 庭園跡に、1799年、オープンした。現在のパリー証券取引所とオペラ座の間にあるパリー最古のpassageである。

                  アメリカ人の船主、William Thayer がフランス革命後にここを買取り、二つのドームを建て、そのなかに panoramiques を展示したという。最初のはアメリカから輸入したものだが、その後フランス人絵師がたちが20年間に18の作品を描いた。観客は、それぞれのドームの Rotonde (ガラス張り丸天井)の下の台の手すり凭れて、周囲の Panorama 絵画をみた。一つの作品の周囲97メートル、高さ19メートル、テーマは、Toulon 港、Boulogne, Rome, Naples の野営地、Navarin の戦闘場面、などである。 飾られた絵の総面積は35000平方メートルに及んだという。Panorama の精密描写、トーンの迫力、遠近法の正確さに観客は圧倒された。ルーブルに展示されている「Le sacre de Napoléon ナポレオン戴冠式」を描いた David は生徒たちに「ここにくると、絵の勉強になる」と言い、Chateaubriand は [Paris からJérusalem] の序文に「一目で、どこが描かれているかわかった。完璧な幻想画である。私自身、Jérusalem, Athnes から Paris まで、真実と虚偽を混ぜて、このような旅をさせてくれるとは、期待もしていなかった。 このパノラマ画を見てから、自分の著作のところどころで、それを参考にした」みたいなことを書いている。

                        パノラマは1831年に消滅した。しかし、1807年に隣接して建てられた

                  Le Théâtre des Variétés で Offenback はここで大成功を納めている。これでパリーは当時世界最大のオペラシテイとなり、毎日オペラの新作が上演される都といわれたほどである。

                        Passage des Panorames は1974年歴史的建造物に指定された。長さ133メートル、幅、3、2メートルである。私有物である。

                        日本では浅草寺の仲見世のような商業施設は江戸時代からあったが、アーケードが作られるようになったのは、欧米文明のの影響である。 ちなみに日本で一番長いのは大阪市天神橋筋商店街。総延長 2,6km 高さでは高松市、丸亀商店街の32,2m 断面積では大分市ガレリアーケード 幅24m、高さ18m 現存する日本最古のアーケードは別府市竹瓦小路アーケード 1921年、大正10年製。

                        関西のほうが、関東より進んでいるようだ。 大阪の心斎橋筋、老生が30年勤務した神戸の三之宮、元町商店街など。流行が関西からはじまることがあるが、アーケードはその一例だろう。   

                        Passage des Panoramas では Philatérie切手の店が目立つ。 Camille が値段表を見て驚いていたが、1900年の切手が1700ユーロである。この年に発売された切手は Blanc, Mouchon, Merson の三種で、それぞれデザインした画家の名前がついている。順に少額(1,2、3、4,5 サンチームなど)中額 (10、15サンチーム)、高額(40,50サンチーム、1,2,3,5 フラン)切手であるが、額面と骨董価値は別らしく、少額切手に収集家は熱中しているらしい。1700ユーロの値がついているのはどれか、ご存じのかたに、教えていただければ、幸甚である。 Blanc切手では自由の女神が、 小天使が象徴する、平等と友愛を天秤にかけている。 Mouchon切手では、フリギア帽に月桂冠をかぶった共和国の寓話的女性マリアンヌが「人間の権利」と印刻された石版を持っている。Merson 切手に描かれているのは 農業の女神で、座って、共和国の平和を守っている姿を象徴している。

                        Camille はそのほか、中古品を色々紹介している。この商店街では イヴェントとして Vide-grenier 市が開かれるという。Ricotta 女史は「蚤の市」のコメントで、これを「ガレージ・セール」として紹介されている。Vente de Garage はカナダケベック州で始まった言葉らしい。Vider は空にする、在庫一掃の意味の動詞である。Grenier は屋根裏部屋、普段は不要品を置いておく納戸みたいな場所。この二つの組み合わせが Vide-grenier Braderie ともいう。古着、小型家財道具類、靴、置物、アクセサリー、食器、自転車、などが並べられる。 掘り出し物があるだろうか。 また、パリー中で、年末大商戦のあと、Solde が行われる1月初旬には、商店街の人は1900年代の衣装をつけて顧客にサービスするという。

                  ちなみに、1900年に発行されたフランスの切手は次の三種類である。

                  これらの切手のことに関しては、老生の昔のテニスクラブのメンバーである、安西慶応大学名誉教授の労作「フランス切手 1世紀半の歴史をたどる 国名表記の変遷」に負うところが大きいので、ここにそのことを記して、謝意を表します。

                   


                  虎と小鳥のフランス日記 第43話 創造性の溢れる場 104 を見て

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                    虎と小鳥のフランス日記 第43話創造性の溢れる場 104を見て

                    今回のビデオに出てくる Le 104 とは何のことか、老生には何の予備知識もなかった。

                    織田先生が紹介されているホームページを見る前に、第三者がどのように解説しているか、すこし調べて見た。そのあとでLe 104のホームページで自らの使命、その実現手段と方法、について、どのように構想しているか、見ることにした。

                          場所はメトロの「Stalingrad」の近く、19区にある。アドレスは

                    104, Rue d’Aubervilliers, Paris 19e arrondissement  これを見てはっと気づいた。この番地が104で、これがこの施設の名前になっていることだ。

                    一言で言えば、この施設は Salle polyvalente et centre culturel à Paris 「パリにある多目的ホール付き文化センター」である。パリー市営である。

                    2001年からパリー市長である Bertrand Delanoë 氏の文化政策の一環として、2008年末に完成した。この市長は社会党の代議士、自らhomosexuel だと言ってはばからぬ政治家であるが、色々な改革、革新を手がけていることで有名な人物である。

                    1863年にはここは屠殺場であった。1905年、「教会(宗教)と国家(政治)」とのいわゆる政教分離発足後、屠殺場がパリー市営葬儀場に生まれ変わった。

                    Ordonnateur des pompes funèbres とは 葬儀係で、公職の1つ。つまり葬儀は公の機関の職権で行われるものであり、宗教の特権ではないという考えによっているのだろうか。

                    葬儀場時代、建具師、高級家具師、車両修理工、機械工、衣装係、画家、石工など、1400人の従業員がおり、最盛期には27、000台の霊柩車を製造している。

                    この建物を設計したのは 工業建築専門のDelabarre de Bay et Godon で、伝統的な鉄骨とガラス製建築であるという。伝統的な工業建築法とは二棟の、屋根がガラス張りのホールで、その間の Jardin anglais と呼ばれる 通路があり、地下に貯蔵室を設ける工法をいうらしい。敷地面積は26.000平方メートル。Grand Palais を小さくしたような感じか。

                    1995年に歴史的建造物に指定され、2年後に葬儀場は別の場所に移転した

                    2003年、このスペースの再開発のため、3つの建築会社のコンペが行われ、Atelier Novembre が選ばれた。 選ばれた理由はこのサイトのもともとの景観をなるべく保存するプロジェクトであったからである。ケドルセー美術館(印象派美術館)がかっての鉄道の駅舎の面影を残しているのと同じ発想なのであろうか。 

                    2008年末にオープンして以来、Le 104 は Robert Cantarella と Frédéric Fisbach の共同監督下で、世界に例をみない、現代アートの創造現場となった。 Robert Cantarella はそれまでに、すでに、国立シャトレー劇場で Antoine Vitez の弟子として名声を博していた。1996年にはVilla Médicis 賞を受賞、Dijon の 劇作センター長を歴任した。1990年ヨーロッパだけでなく、アメリカ、フィリピン、モロッコで演出に携わっていた。

                    Le 104 では、毎年、4回のフェステイバルが開催され、作品の上演のほか、他の部門のアーテイストにインスピレーシヨンを与えて刺激し、意見の交換を行い、次の利用者の創作活動を引き出すきっかけにしようとしている。

                          開館2年後、共同監督二人は辞任、後任は José-Manuel Gonçalvés, 元、Directeur de la Ferme du Buisson. 同監督は今後は Spectcles の重要な拠点にしたいと意気込んでいるようである。

                    開館日 火曜―土曜日 11時からー23時 切符の販売は12時から19時まで

                    日曜日―月曜日は11時から20時 切符の販売は12時から19時

                    チケット代金: 年間パス 18−28ユーロ

                    割引料金 3ユーロ rendez-vous, 展示会、見学

                    通常料金 5ユーロ 同上

                    入場無料:ouverture、映写会、討論会

                    入場券 + 食事 +デザート 11−20ユーロ  オプシヨン

                    通常の文化センター

                    芸術家の家、アトリエ、

                    公演舞台

                    この施設は、また、第三セクターとしての場所を提供している。社会的ユーテリテイ、イノベーシヨン、経済効果を集約する機能である。また、アートが誕生する過程を一般に公開している。Le 104 は活動を国内のみに限定せず、同じ問題を抱えている国際アーテイストとも交流している。

                    現在それぞれの制作条件のもとで行われている創作の現場について、今後どうあるべきか, 討議し、共同で、再検討する場ともなっている。またヨーロッパの他の同様のセンターもこれに同調する気配を見せている。

                    あらゆるアートが展示の対象となる。各アーテイストが必要とする道具、手段に不足することはない。彼らの使用中、必要に応じて、別のスペースを利用することも可能である。

                    Le 104は門戸を開放する方針から、アート育成にも活動範囲を拡大している。6000平方メートルの商業設備を賃貸している。また2008年以降、104企業、個人による支援活動Les Mécènes du 104が創設されている。

                    4部屋付き、アパルトマンが6つ用意されているので、ここにアーテイストが居住することもできる。また、毎日300平方メートルの食堂が開店している。

                    マルチ・アート創造(pluridisciplinaire)センターと言うべき、新しいコンセプシヨンである。 現在の文化政策の最先端を行くプロジェクト(projet phare)である。 以上が第3者がみた Le 104である。

                          Pluridisciplinaire とは、大学の学部に譬えれば、物理、化学、電気科ののいづれにも関係してくる学問を言う時などに使われる言葉で、international 「国際」に倣って「学際」と訳されている。草間彌生の作品を例にとれば、デザイン、染色、縫製、着付け、あるいは、彫像が必要なり、複数の分野の ノーハウ disciplines が関係してくる。 マルチ・アートと訳してみたが適訳かどうか。

                    Le 104のホームページを見る。まず 自らを Le CENTQUATRE と名乗っている。名称の由来の説明はない。対象となるアートの説明としてつぎのように言っている。「21世紀現代アートにはあらゆるジャンルの物が入る。 演劇、舞踊、音楽、映画、ビデオ、そして料理もアートであり、デジタル商品もアートである。都市計画もアートである。そこには上下の差別はない。また外部の、主としてパリにある、劇場、フェステイヴァルとコラボレーシヨンしている。」 デジタルもアートか、と疑問が脳裏をかすめるが、ワシントンのスミソニアン美術館でも 往年の人気デジタルゲームの配線板そのものが「アート」として展示されていることを見ると、納得させられる。

                    モードも同様だ。パリには「衣装博物館」があリ、衣装の時代別、変遷がわかるが、モードの現代美術館は,ここ以外にあるのだろうか。

                          つぎの特徴は artistes en résidence である。ホームページには次の記のように記述されている。「Son programme de "plateformes collaboratives" se traduit avant tout par la présence d’artistes en résidence tout au long de l’année (parmi ceux-ci, une dizaine sont actuellement associés à l'établissement), et par une coopération avec différentes structures, des théâtres et des festivals majoritairement parisiens

                    この施設に年間を通じて滞在するアーテイスト(そのうち12人はartistes associés に指名され、施設の運営に参加する)と、外部演劇、フェステイバル団体とのコラボレーシヨンを謳っている。こればモンマルトルの「洗濯船」はモンパルナスの [La Ruche]のように、画家が共同生活を送りながら画業を切磋琢磨した歴史を再現しながら、その上に、さらに、外部団体との共同作業を狙っていると思われる。Artitistes associés に指名されたアーテイストは、将来の成功が期待される実力者なのだろう。

                    日本では、コンサート・ホールの resident quartet と言えば、この四重奏団はそのホールに住み込んでいるというより、そのホールの専属でありそのホールの庇護をうけている、というほどの意味であるが、Le 104 の場合は4室付きのアパルトマン6部屋用意されているという。さらに、作品の制作過程に応じて下記のRésidence (滞在制度)を設けられている。

                        Résidences de diffusion/production : de structure à structure
                     
                      Résidences d'essai
                        Résidences réactives

                    これらの階段を登りつめて、最後にartisites associés に抜擢される仕組みのようだ。 アメリカで resident と言えば、インターンを卒業し、専門分野で、病院医師の監督をうけながら、将来一人前の専門医になるためのトレーニングをうける医学生を意味するが、それをアートの分野に使っている言葉のように感ずる。

                          次にLe 104 が目指しているのはここを皆のための文化生活の場とすることだ。小さいころからアートになじませようと、0−5歳の両親同伴の子供のためのMaison des Petits , 近隣のアマチュア・アーテイストのための Le Cinq, 外部団体へはスペース、設備の貸与を行なっている。

                          L’incubateur (保育器)と呼ばれる一角は "l’innovation par la création, la création par l’innovation". をモットーに若い研究者に、

                    産学協同開発などでイノベーシヨンできる場を提供しているようだ。

                          最後に芸術活動支援(mécénat)のための資金募集活動も斡旋していていて、その説明に相当なページを費やしている。いつの世でも若い芸術家を育てるには相応しいパトロンがいるのだろう。 

                    織田先生の解説にあるように、フランスには国の威信をかけて芸術を保護する伝統がある。日本でも新国立劇場、国立能楽堂などで後継者育成のためにある程度取り組んでいるが、今は、花より団子かのご時世か。

                    確かにLe 104 は色々な意味で、21世紀アートを創造する centre unique au mondeの構想だ。しかし現状で、その構想が成功しているかどうかは、まだ不明のようだ。 今後の運営次第でその成否が決まる壮大な実験であるとも言えよう。

                    ちなみに パリーには、モンパルナスに近いところに Le forum 104がある。こちらは、キリスト教、イスラム教、仏教など宗教に共通する interspirituel 問題を討議し、瞑想が行われている。禅の講義もある。が、Le 104 とは無関係である。

                    老生の現代アートに対する卑見を述べて擱筆する。アーテイストは常に時代の先を行く。マーラーは自分の音楽は自分の死後、100年たったら評価されるようになる、と言ったが、まさにその通りで、ここ20年来、世界中でマーラーブームが起きている。ドラクロワの、ルーブルにある「シオの虐殺」見た、美術評論家はこれは「絵画の虐殺」だと酷評した。印象派の絵は最初、絵画とみなされなかった。プルーストが「失われた時を求めて」を世に出そうとしたとき、どの出版者、編集者も断ったので作家は、第1巻を自費出版せざるを得なかった。大手出版社が飛びついてきたのは、自費出版が好評だったし、最初否定的見解を示したたアンドレ・ジッドが評価を変えたからでもある。第2巻はゴンクール賞を獲得している。今年没後90年。

                          アーテイストの作品は同時代の人の目には奇妙、ないし、理解不能に見える。その芸術性が認識されるまでには、相当な時間がいる。作品は時間の試練に耐えうるものでなければならないし、見る側にも鑑賞力を養うことが求められる。それをある程度わかった上で言うのだが、パリでも東京でも現代アート美術館の展示品はあまりにも玉石混交に過ぎるのではないか。 がらくたとしか思えないのも、単に奇抜さを狙っただけのものも、作品として堂々と展示されている気がする。果たして歴史という時間の審判に耐えられるのだろうか。このうち何点が、21世紀の傑作として後世に残るのだろうか。かってポンピドーセンターで、部屋の隅に座っている警備員に聞いたことがある。「あなたは毎日この作品を見ていらっしゃるが、この作品を素晴らしいと感じたことはありますか?」彼らは声をださずに、わずかに首を振った。 著名な現代美術評論家に同じ質問をしたが、完全に黙殺されたことがある。アーテイストの、ひとりよがり、奇抜さと、本物の芸術性、とをしっかり見極める目が必要だと思う。一個の茶碗の値段を、2百円、2千円、2万円、20万円、200万円、2000万円と値踏みできる鑑識力となれば、これはもう骨董の世界だが。


                    虎と小鳥のフランス日記 第42話 ルルク運河出の散歩を見て

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                      パリ市内には3つの運河がある。Canal de Saint-Martin, Canal de Saint-Denis そして Canal de l’Ourcq である。いづれもパリー市が観光船を運行させている。今回のビデオでは Canal de l’Ourcq のごく一部が紹介されている。

                      この3つの運河は Canal de Saint-Martin で合流し、最後はセーヌ川につながっている。Saint-Martin 運河は全長約4、5キロほど、最初の区間の両側を散歩でき、両側を結ぶアーチ型の鉄橋は風情があるが、半分は暗渠(石造りのaqueduc)になっていて、見ることはできない。 その先端はセーヌ川のレジャーボートの発着港に注いでいる。

                      老生が、Canal de Saint-Martin 界隈を訪れたのは、ここに 映画「北ホテル」のモデルとなった実物の北ホテルがあった(今でもある?)からである。撮影はスタジオで行われたのであるが、それを承知の上でも見に行きたかった。他の二つの運河は見たことがない。 観光船に乗ったのはセーヌ川の Beateaux-mouches だけである。 今回のビデオを見て、良い機会なのでCanal de l’Ourcq の歴史を辿ってみた。それはフランスの歴史であり、パリーの歴史であった。

                      Ourcq とはフランス語では珍しい綴りである。855年には Urc と呼ばれ、ケルト族の祭 Urca に由来するという。 ジュリアス・シーザが「ガリア戦記」で書いているように、現在のフランスにはケルト族のゴール人(Gaulois)が先住民として住んでいたのである。 ケルト神話はいまでもフランスに残っており、老生の愛読しているプルーストの「失われた時を求めて」にも登場する。 

                      L’Ourcq は 川の名前である。源流はDépartement de l’Aisne の湿地帯の森の中である。源流から渓谷を通り、87km下ったところで、Marne 川に合流する。 Marne 川の支流といってもよいが、その水量の殆どは Marne に流れずに、運河としてパリに向かって流れている。 一方Marne 川はそのあと、パリーの南部で Seine 川に合流している。 L’Ourcq は運河として Marne 川の合流地点から、Marne 本流としばらく、並行して流れる。チーズの Bri で有名な Meaux は 二つが並行して流れるいる区域にあるある村である。 二つはやがて、離れ離れとなり、L’Ourcq は、ほぼ一直線に パリーに向かう。L’Ourcq が運河化されているのは、Marne との合流点より8キロほど上流からである。 Saitーー
                       
                      Martin
                      に入る直前に Le Bassin de la Vilette を通過する。Le Bassin de la Vilette は Canal de l’Ourcs と Canal de Saint Martin の間のBief (水門と次の水門との間の区画)の役を果たしている。 L’Ourcq 源流からパリーまでの全長は約100km.

                            L’ourcq の源流は湿地森林地帯で、広大な森林は Valois Orléans 両家の所有地であった。 狩猟好きのフランソワ1世(1491−1547)は狩猟官に森林のなかに狩猟用の林道を作らせ、さらにここで伐採される材木をパリーまで水路で運ぶことを考え、水路の建設をイタリアから呼び寄せていた、レオナルド・ダ・ヴィンチ、フランス語で Leonard de Vinci に命じた。絵だけでなく、飛行機の原型など、いろいろな発明者であった、ダ・ヴィンチは、フランスでは初めての堰を設けた水路をテストしたという。運河の建設はは1560年から始まり、1661年には運河の通行税をルイ14世が実弟の フィリップ・ドルレアンに配布したと伝える。

                            時は替り、ナポレオンの登場となる。ある歴史家の記述によると、<1801年のある日、ナポレオンはマルメゾンの庭園を時の内務大臣と散歩しているとき、内務大臣に「余はパリーを世界で最も美しい都にしたいと思っている。パリのために、何か、大きなこと、役に立つことをしたい。貴下はどう思うか。」「水です 水をパリに与えることです」「何、水とな、パリにはあちこちに井戸があり、セーヌ川がながれているではないか」「その通りです。しかし一方では水は一本いくらで売られています。これは市民には相当の負担となっています。年間で36フランにつきます。それに街を清掃するための井戸も手段も、動物のための水飲み場もありません。」「どのような手段でパリーに水を持ってくるというのか」「それは L’Ourcq 川の水をパリまで引っ張ってくることです」「よし、その案で行こう。Gauthey を呼べ、明日500人の兵を動員して運河を掘らせる」(Gauthey はすでに中央運河を掘削した実績があった)Gauthey はただちに現地調査をし、即刻報告書を提出するよう命じられた。報告書は直ちに認可され概算費用は1200−1500万フランと見積もられた。かくて1802年5月勅許が下った。> 

                      計画は、運河による水上輸送と同時に飲料水を確保する二つの目的をあわせもつものであった。航路としては水門(Écluse)を設けなければならないが、飲料水のためには、「淀み」が生じててはならないという、合い矛盾する困難な工事であった。設計担当者を選んだのもナポレオンである。ナポレオンに従軍してエジプト遠征に参加した技師である。さらに、Canal Saint Denis に繋げるため、用地買収が必要となるが、その様子はバルザックの小説に描かれている。この区間の設計は別の技師が担当した。

                      大工事のための財源は、運河開通に伴う収益に、ワイン税を設けて、補った。現在パリにある3つの運河は同時に着工された。ナポレオンが失脚して工事は中断したが、着工23年後に完成した。最初の船がL’Ourcq から Saint Martin に入ったのは 1825年のことであった。 かくて、パリ市民はそれまで、セーヌの水を飲むことでコレラになる危険生があったが、その脅威から開放されたのである。

                      L’Ourcq の水をパリーの飲料水にすることを提案したのはこの内務大臣が初めてではない。 ルイ14世のころ、王の命令で、パリー市内では多数の井戸が掘られたが、人口の増加に伴い、一人あたりの給水量は13世紀時代より、少なくなっていた。 この時、Canal du Midi を作った技師が L’Ourcq 用水を現在の Place de la Nation まで引いてくることを提案たが、1680年この技師が死に、彼を庇護したコルベールも失脚したので、この案は高くつきすぎるという理由で廃案になっていた。 この案に陽の目を見させたのが、がナポレオンであった。かくてパリー市民は

                      1800年には、一人あたり一日100リットルしか供給されていなかった給水量を

                      400リットルまで増やしてもらったのである。

                      ナポレオンの棺は ご存知の通り、Les Invalides の中に収められており、棺を巡る壁にはかれの遺言が印刻されている。「余は、余がかくも愛せしセーヌのほとりに眠らんと欲す」かくして、彼は満足しているのではないか。

                      江戸初期、江戸の上水は井の頭公園を水源とする神田川一本で足りたが、人口の増加で、もう一本玉川上水が引かれた。やがて、水質が悪くなり、現在の都庁のあるところに淀橋浄水場が建設され、老生が若いころまで稼働していたが、それでも間に合わなくなり、やがて淀橋浄水場は撤去され、東村山に新しい浄水場ができた。淀橋浄水場撤去跡に都庁が建設され、それまで有楽町にあった庁舎が移設したのである。

                           一方パリーでも、セーヌ川も汚染がひどくなり、パリー市長であった、シラクが大統領戦に出馬するときの公約は「私が大統領になれば、セーヌを綺麗にする。私は綺麗になったセーヌで泳いで見せる」であった。 筆者の勤務していていた会社の親会社は、酸素を作っているフランス最大のメーカーでセーヌ河畔に本社があった。 窓からセーヌを見ると、酸素船が川の中に酸素をバブリングさせて水を浄化しているのが見えたものだ。なるほど以前よりは大分綺麗になった。大阪の道頓堀も同様であるが、ともに、まだナポレオンがやったほどの効果は上がっていないようである。

                            パリーの3運河に話を戻す。現在は飲料水目的はなくなって、水上輸送、レジャー専門である。Saint Denis は工業用水の供給。 L’Ourcq は、サイクリング、ハイキング、カヤック、魚釣などの人気スポットになっている。 昔は魚影が濃い川であったが、木が伐採され、堤防の工事のため、生態系は大きく変化し、昔ほど魚はいなくなっているが。

                       もう一度、 水源を整理すると L’Ourcq は La Marne の支流であり、Canal de Saint Martin は La Seine に注いでいる。 Canal de Saint Denis は L’Oise川に注いで、やがて La Seine と合流する。パリーは L’Île de France と言われるいわば、パリー盆地の中心に位置している。この一帯がÎle (島)ではないのに、なぜ L’Île de France と呼ばれるのか。 地図を見ると、よくわかるが、北は L’Oise に、南は La Marne に、そして東には La Seine に、と3つの川に囲まれているからだと説明されている。

                            フランスはヨーロッパでも有数の運河の国である。スエズ運河を作ったのもフランスである。フランスの河川と運河で、ある容量の船が運航可能な水路、(Eau Navigable)の総延長距離は8.500km でヨーロッパ第一位である。 日本列島の北から南までは約、2.500kmであるから、 いかに長いか、最後に掲げてある地図を見るとわかる。 これら水路の利用目的は物資の輸送と観光である。

                      運ばれる物資は、建材、食料品、エネルギー関連、コンテナー・重量車両などで、その50%がセーヌ川水系によっている。

                            あまり知られていないのが、観光である。地図を見れば、英仏海峡から地中海に航海できるのである。セーヌ川をさかのぼり、Canal du centre 運河を通ると、la Saône (ソーヌ川)に出る。南下すれば、Le Rhône (ローヌ川)に合流、地中海に抜けられる。La Marne からも La Saône からも Le Rhin (ライン川)に抜けられる。また地中海からCanal du Midiを通り、La Garonne (ガロンヌ川)を通って、大西洋に抜けられる。 

                            これらの水路は自分でボートを借りて好きなところで止めて、付近をサイクリングしたり、またボートに乗って別の場所に移動したり。乗合船のような定期観光船もある。水門というのは、下から上へ上がろうとするとき、上、下の水門を閉ざし、間の空間に水を入れ、その水位が上がって、上の水門のレベルまで来たとき、上の水門を開いて、船を一段高い水位に上げるためのものである。 のんびりと田園風景をみながら、各地を回るには絶好のTourisme である。 筆者はパンフレットは見たままで、まだためしたことがないのに、想像で書いているに過ぎない。

                            陸上輸送による大気汚染、衝突事故、渋滞の問題を解決するため、パリーの

                      3運河を始め、特に、Canal du Nord と言われる工業地帯での運河を再開発する

                      計画があると聞く。パリには Greater London のように、大パリー計画もあり、今後どうなっていくか、注目に値するところである。



                      図らずも今回ブログコンクールで入賞させていただきました。老人の懐古趣味にすぎない駄文を読んでいただいたり、投票していただいたかたがたに感謝します。過分のお褒めの言葉をいただいた織田先生にも心から御礼申し上げます。ありがとうございました。


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