虎と小鳥のフランス日記 第50話 フランス大統領選挙(その2)を見て
今回の大統領選挙の各候補者のポスターを見ると、France Forte, France Libre など、というスローガンが見られた。一つの国が強い国、とみられるためには、いくつかの条件が要る。
1. 食糧自給率が高いこと
2. エネルギー資源が充分にあること
3. 国防力が確立していること
4. 国民に自立心があること
5. 国際的発言力があること
6. 教育、経済、財政、が安定していること
などがあげられよう。
フランスは食糧自給率100%であり、未耕地を活用すれば、現在の人口が3倍になっても自給出来る国である。
エネルギーについては石油は輸入に頼らざるを得ないが、電力の75%は原子力発電によって賄っている。天然ガスは輸入しているが、電力は輸出国である。Hollande の2012年選挙公約は原発依存度を2025年までに現在の75%から50%に減らすとしており、一方では第3世代の原子炉「欧州加圧水型炉 EPR(Réacteur pressurisé européen) の推進には賛成しており、環境派から反発されている。
国防力については、核保有国であり、アリアンヌ・ロケットによる宇宙開発、ミラージュなどの航空機では超一流国と言える。
国民の自立心については右派、左派を問わず高い。国歌にたいする愛着心は、最近やや低下の傾向があるものの、いざというときは団結する力がある。
国際試合で、フランスチームに活を入れるときのレフレーンは、右派、左派共マルセイエーズの中の、« aux armes citoyens !» の大合唱である。
国連では常任理事国であり、右派、左派で分裂していない。IMH, WTO, 欧州中央銀行総裁などの、国際機関のトップはフランス人である。
自由、平等、博愛、連帯の価値観は右派、左派とも共有しており、これに反する、例えば、リビアのダフィ政権の打倒には両派とも賛成している。
問題は経済、財政で、ドイツに一歩遅れをとっている。フランスとドイツは長い間、第二次大戦まで戦いを繰り返してきたが、大戦終了後、アデナウワーとシュウマンの二人の「ライン人」が両国の間で二度と戦争がおきないようにしようという話から、1951年には戦争に不可欠な石炭と鉄鋼を共有しようとするパリ条約を調印している。現在、社会科の教科書は、両国とも言葉こそ違え、中味はまったく同じにしているし、(日韓とはまるで逆である)幾多の経緯を経て、欧州統一通貨ユーロ制度に踏み切っている。1991年12月、EU 首脳会議で、「フランスは我が祖国、欧州はわが未来」が口癖のミッテランの記者会見が行われたのは、午前2時、2000年EU 首脳会議でEU拡大に備えた制度改革の合意にて手間取り、議長国のフランスのシラク大統領が記者会見したのは徹夜会議後の午前6時であった。今回のユーロ危機を乗り切るため、サルコジが顔面蒼白になって各国首脳との調整を図り、とりあえず、乗り切ったのは2011年10月下旬、サルコジが会場を去ったのは午前4時であった。
問題は自国の経済、財政、失業率の問題で、サルコジも、支持者からは「何時寝るのかわからないほど、活動したが」、結果として、失業率を下げる、つまり雇用の機会を増やすことはできなかった。
70万人の雇用を創るのが目的で、2002年、社会党内閣で週35時間制が実施された。結果は労働省の発表で、1998年から2004年までに35万人の雇用があったとされているが、MEDEF(Mouvement des entreprises francaises フランスの経団連) は初年度で15000人としている。OECDも短期的には財政には重い負担増となり、経済的潜在能力に打撃を与える恐れがある、と結論づけている。ただし、35時間制の採用で出生率は増加し、いまでも続いているので、長期の調査が必要だと言われている。
「社会格差是正」lutte contre la fracture sociale という左翼ばりのスローガンを1995年の大統領選挙の公約に掲げたのは何と、右派のシラクであった。
Hollande 新大統領は緊縮財政に反対する立場で、この問題をどう解決し、ユーロ危機を脱出するのか、その行き先に、はやくも市場は黄色信号を出している。
織田先生は今回の選挙には隠された争点として人種問題があると解説しておられた。サルコジ自身ハンガリヤ移民2世である。人種問題は各国で、その歴史、影響、世論はまったく異なり、沢山の本が書かれるほどの大問題であり、老生の手に負えるものでない。
ここでは、フランスの人種問題の一つである、イスラムとユダヤと限ってその歴史の一端に触れてみたい。
アラブ民族のなかで、マグレブ Maghreb (アラブ語で日の没するところ)諸国(現在のエジプト、チュニジア、アルジェリア、モロッコなど)に侵入し、さらに、ジブラルタル海峡を超えて、イベリア半島に入って来た民族を サラセン人、Sarrasin, または、Sarrazin という。イスラム教徒 Musulman である。彼らは、グラナダを根拠地として、イスラムースペインの混合文化の華を咲かせることになるが、711年からピレネ山脈を北に越えて、現在のフランスに侵入してくる。725年には Languedoc を占拠し、ローヌ峡谷を簒奪した。Aquitaine 公は、721年、Toulouse でサラセン軍の侵入をとめたが、サラセン軍は再度侵入を試み、Aquitaine 公だけではくい止めることができず、732年、Charles(690?−741) の援軍を乞う。Charles は事実上この当時のフランス国王であった。フランス連合軍はPoitiersで、サラセン軍の大将を殺害し、勝利した。一説によると、この勝利により、Charles は Charles Martel と呼ばれるようになったという。Martel とはMarteau (ハンマー、斧)である。余談であるが日本家電全盛期にフランスはこの侵入を阻止すべく、日本製品の税関を Potiers に設けたのはこの故事によっている。
サラセン軍は全戦線で敗退したのではなく、735年には Avignon, Arles を占領している。Charles は737年には Avignon を奪回した。この勝利で、サラセン軍は Narbonne 以南と、Provence のいくつかの要塞地点を占拠するにとどまった。その後、759年、フランス軍はNarbonne も奪回し、この勝利でCharles Martel の王国は統一されたといわれている。
Charles の孫の Charlemagne (ドイツ語でカール大帝)は、778年、スペインのカタルニアに遠征、甥のRoland はこの遠征で、最も危険な後衛部隊を率い、イスラム軍に包囲されてしまう。孤立無援のRoland は助けをもとめず、伯父から賜った剣で最後のひとりになるまで戦った。11世紀末に作られた Chanson de Roland はこの故事をテーマにした叙事詩である。
時と場所が変わって、1099年のエルサレムである。第一次十字軍がイスラムに勝利し、Royaume de Jérusalem (Royaume latin とも言う)
を建国、、フランス人 Godefroy de Bouillon が初代君主となり、王国は1187年まで約100年間、続く。十字軍の遠征目的は聖地エルサレムをイスラムから奪回し、キリストの墓と遺品を守ることであった。十字軍は1270年の Saint Louis聖王ルイの出征まで8回おこなわれるが、キリスト教徒がエルサレムを支配したのは、1099年から1187年までと1229年から1244年までの間で、その他の期間は20世紀まで、イスラムが支配した。
Saint Louis は、キリストが磔刑に処されるゴルゴダの丘まで、自ら担がされたとされる十字架の一部、頭に被せられた、茨の冠を高額で買取り、パリに Saint Chapelle を建立して、そこに奉納したが、フランス大革命のとき、礼拝堂は簒奪され、キリストの遺品reliques de la Passion は失われたという。サンルイ島にある美しい礼拝堂はいまでも観光客が絶えないがキリストの茨の冠をみることはできない。
第1回十字軍の時から、聖地エルサレムに巡礼するキリスト教徒を保護し、病院を建てたのがマルタ騎士団であった。かれらはエルサレムを追われてから、一時ロードス島に根拠地を移した、1552年、オスマントルコに占領され、マルタ島に移ったので、この名がある。マルタ島は1798年、ナポレオンが侵攻、騎士団は領土を奪われ、現在領土がないまま、イタリアから治外法権を認められていまなお存続している。
十字軍はイスラム教徒を殺したが、多くのユダヤ人も殺した。キリスト教徒の反ユダヤ感情 Anti-sémitisme の根は、実に深いことも知っておく必要がある。
現在フランスのイスラム系移民は約500万人、人口の1割近くいる。イスラム女性は「ブルカ」「ニカーブ」を着用する習慣があるが、 Laïcité「政教分離」のフランスでは公の場での着用を禁止する法令を上院、下院で可決している。これは宗教弾圧ではないと、憲法評議会も承認しているようである。しかしキリスト教徒、イスラム教徒の対立は上記のように根深いものがある。両宗教ともユダヤ教のアブラハムから始まっているのに。 ユダヤ教が成立して600年後にキリストが生まれ、さらに600年後のモハメットが生まれている。
さてもうひとつの人種問題であるユダヤである。1894年、ドレフュス事件が起きた。ユダヤ人の、フランス陸軍参謀本部大尉のAlfred Dreyfus がドイツに軍事機密を漏洩したスパイとされたことから始まる。証拠不十分なまま非公開の軍法会議でドレフュスは有罪とされ、階位を剥奪され、終身禁錮刑で、南米仏領ギアナ(アリアンヌ・ロケットの打ち上げ基地がある)の沖の L’île Diable に送られた。
この事件は、その後フランス国内を dreyfusard と anti-drefusard とに二分する社会事件に発展、Zola がこの裁判を弾劾して、“J’accuse 我告発ス ”と書き、彼自身も有罪とされ、イギリスに亡命した。途中経過は省略して、ドレフュスと一家は終始無罪を訴え、ついに、1906年無罪判決を勝ち取る。この冤罪事件は、日本では、昭和初期、大仏次郎「ドレフュス事件」によって紹介されている。
この事件の背景を考えておく必要がある。1870年の普仏戦争に敗れたフランス(ナポレオン3世帝政下)は鉄鉱石と石炭の豊富なアルザス=ロレーヌを失い、莫大な賠償金を課せられフランス経済は危機に直面する。国内経済の不振で資金は有利な海外投資に向けられ、ロスチャイルドなどのユダヤ系の金融資本が国民の零細な貯蓄を投資に引き入れ、東ヨーロッパなどへ投資した。しかし、1882年に金融恐慌が発生、多くの投資銀行が破産、貯蓄をなくした人々は金融界を牛耳るユダヤ人への憎悪を昂らせた。ユダヤ人の金貸しから借りていたフランス庶民は借金の証文を破り捨てた。
事件後、軍部の自己保身とユダヤ人排撃が原因であることが判明し、フランス陸軍は決定的なまでに信用を失う。一方、この事件がきっかけで、ユダヤ人国家を目的とするシオニズムが生まれ、第二次大戦後、1948年のイスラエル建国につながってゆくことになる。ユダヤ人は2000年奪われていた領土を回復したのである。
しかし、フランスでは、anti-sémitisme 反ユダヤ感情は今でも根強く残っており、時に国内のユダヤ人墓地が陵辱される事件が起きている。
Juif という言葉は時に、「差別語」とされるので、フランスでは使わないほうがよい、と筆者はフランス人から忠告を受けたことがある。では何と言うのかと反問すると、「Hébreux,または、Israélite」との答えであった。ヘブライとはユーフラテス川を「超えてきた」人の意味。イスラエルとは、アブラハムから数えて4代目のヤコブが神の使いである天使と戦い負けなかったので、神から、神に負けざる者 invincible という意味の イシャラー(勝つ者)に エル(神)の複合名詞でイスラエルと名を名乗ることを認められ、この名が国の名となった、と旧約聖書に書かれている。
まったく余談だが、日猶同祖論というのがある。日本人とユダヤ人(古代イスラエル人)は共通の先祖を持つ兄弟民族であるという説で、少数ながら、日本とイスラエルにこの論者がいる。日本に住んだユダヤ教ラビのトケイヤー氏もそのひとりである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E3%83%A6%E5%90%8C%E7%A5%96%E8%AB%96 に27ページにわたり詳述されているので、ご興味のあるかたは参照されたい。上述のヤコブが4人の妻に産ませた12人の息子が猶太12氏族となったが、ソロモンの死後、10氏族はソマリアを首都とする北イスラエルを建国、ダビデ ー ソロモン直系の2氏族はエルサレムを首都とする南ユダ王国に分裂した。北イスラエルは紀元前722にアッシリアに滅ぼされ、10氏族の指導者層はアッシリアに連行されたが、その後の行方は不明である。日猶同祖論ではこの「失われた10氏族」は日本に渡来したという。日本でキリストの墓をまもる青森県、戸来(へらい = ヘブライに通ずる)の話もある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E3%81%AE%E5%A2%93
それはそれとして、老生がかねがね疑問に思っていることがある。アメリカに居住するユダヤ人は500万強、イスラエル本国にほぼ同数、世界中のユダヤ人を合計しても1400万人と言われる。アメリカ全人口の2%程度しか占めないユダヤ人がアメリカの国富の約1/4を占めるという。ノーベル賞受賞者の1/3は、アインシュタインを初めてとしてユダヤ系である。 何故なのか? ひとつの答えは、領土、資源をもたない民族の力は頭脳と資質だけであるから、ユダヤの富豪たちはその富を優秀な人材を育てるのに惜しみなく使うというのであるが、ご存知のかたにご教示いただければ幸甚である。
プルーストの「失われた時を求めて」を読んでいると、上述したことが諸所に出てくる。グルマント家の先祖がCharles Martel に従軍した Brabant 公を先祖としていることを伺わせる、 Genevière de Brabant 伝説や、マルタ騎士団の団長も同家の先祖であると、匂わせることが書かれているし、著者の母親がユダヤ人であったこともあって、ユダヤに関する色々な話が登場する。 南ユダ出身のアタリーをテーマにしたラシーヌの戯曲「アタリー」は何回も引用されているし、グルマント家のサロンではドレフュス事件の賛否が論じられている。小説としての醍醐味もさることながら、旧約聖書から、20世紀初頭までの、フランスの歴史の推移を知ることができる大河小説でもある。
Charles Martel a la Bataille de Poitiers en cotbre 732
par Charles de Steube (1788-1856), Musee d'histoire de France
de Versailles








